ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.90より

インドネシアでの原発計画復活
                 ディアン・アブラハム

* ディアン・アブラハム(通称アアム)さんは、第4回NNAF(1996年7月、インドネシア)開催時の中心メンバーの一人。現在もMANUSIA(インドネシア反核市民連合)で反原発活動に関わる。マドゥラ島の活動家らと共に推進派の脅迫を受けながらも発言を続けている。


 1997年半ば、後にスハルト大統領の退陣へとつながった経済危機が訪れる数ヶ月前のことである。当時の技術研究担当大臣のハビビ氏は、中部ジャワのムリア半島に12基の原発を建設するという計画の撤回を発表した。ナトゥナ湾で膨大な天然ガスの埋蔵地が発見されたので、エネルギー危機について心配する必要がなくなったというのがその理由とされた。しかし、その発表はうそであったことがわかった。原発計画撤回が経済危機によるものであったことは、現在の政府関係者の中でも広く知られたことである。

 スハルト時代には、こういった国民を欺く行為がしばしば行われていた。反原発活動家の中には、1997年2月下旬に「インドネシア原子力法」が国会で承認された前後に巻き起こった論争を止めるためだったのではと疑っていた者もいた。そして、その議論は止まった。原発計画撤回の発表以来、原発に関する話題はあらゆるメディアから消えた。ハビビは賢明な決断をしたとの評価を得た。

 そうすることによって、彼は97年の5月の総選挙のあとに副大統領になるというポジションを守った。それから一年もたたないうちに、ハビビは偶然にも、彼が偶像崇拝していたスハルト大統領の後をついでインドネシアの三代目の大統領となった。

 スハルト時代の「新秩序体制」に対する反対の世論が沸きかえったスハルト後の改革の時代の中でも、原発計画は以前と同じ原発推進勢力、つまりBATAN(インドネシア原子力庁)や新しく組織されたBAPETEN(原子力規制委員会)、そして技術研究担当大臣らによって秘密裏に進められていた。

 BAPETEN は、中立的な組織であるべきなのにもかかわらず、2002年にはウラン鉱脈を擁する西カリマンタンの人々に対して原発の必要性を訴えるキャンペーンを行うなど、自らの真の目的をあらわにした。

 そして、ほとんどの改革運動の論点が失敗に終わった後、原発計画の復活が明らかになってきた。

 04年には技術研究担当大臣が、エネルギー危機を乗り切るためとして原発計画の復活を発表した。1年後には、エネルギー鉱物資源省が発表した文書の中で原発計画が確認された。06年には大統領の署名を得て、この計画は最終的な決定となった。

● 原発計画

 よく知られていたように、スハルト政権下でも12基の原発を建設する計画があった。立地可能性調査は関西電力子会社のニュージェックによって実施され、1996年に終了した。最初の建設は1998年に行われるといわれていた。予定地は人口稠密なジャワ島の中部ジャワにあるムリア半島にあった。国際的な要件を満たして法的な基礎を作るために、政府は原子力法を国会で成立させた。

 原発計画を持つ理由は、インドネシアにおける、とくにジャワ島とバリ島におけるエネルギー危機である。加えて、地球温暖化も原発を正当化するひとつの理由となった。

 新しいシナリオによると、原子力は「新しく再生可能なエネルギー」のカテゴリーに分類されている。このカテゴリーは、2005年には0.2%であるが、4.4%まで増加が見込まれている。その中で原子力は約半分の2%を占めるようになるという予定だ。

 つまり新しく4基の原発を建設し、総出力を400万kWとするのである。予定地はやはりムリア半島である。1号機と2号機の入札は08年に予定されており、建設は10年に開始される予定である。16年までには1号機が稼動し、25年には2号機が稼動する予定だ。それぞれの原子炉は15億米ドルの費用が必要になると関係者は予測している。

 国会もこの計画を承認したといわれている。実際のところ、インドネシアの原子力法の下では、政府は国会に対して、原発の導入について承認ではなく、協議するだけでよいとされている。

 すでにいくつかの国がインドネシアの原発計画に関心を示している。もっとも有力なのは韓国ではないだろうか。07年に、韓国はMedco社との間で08年の入札に参入するという協定に署名している。1年前、ロシアもインドネシアとの間でエネルギーに関する協定を結んだ。日本も原子力分野での援助を申し出ている。いっぽう技術研究担当大臣のクスマヤント・カディマンは「アメリカとフランスも参入を検討している」という。インドネシアはオーストラリアともウランビジネスに関して協定を結んだ。

● その他のプログラム


 10年前の原発計画のときと違って、東ジャワのマドゥラ島においても原子力プログラムが計画されている。韓国電力とともに、政府は2015年までに発電のみならず海水を脱塩化する原子炉を建設する計画である。

 政府のこれらの計画のほかにも、地方政府からの提案による原発建設計画が少なくとも二つある。ひとつは東カリマンタン、もうひとつはスラウェシ島の北部にあるゴロンタロである。

 東カリマンタンの方は、05年にカリマンタン州の知事全員による決定である。知事らの訴えによると、カリマンタンでは切実に電力を必要としており、原発の建設を政府に要請したという。この計画では、19年に稼動を開始して、出力は30〜100万kWの予定である。

 一方、ゴロンタロの計画は非常に問題が大きい。06年にゴロンタロの知事が「すでにロシアの核関連会社との間で水上型原発購入の契約を結んだ」と発表した。9万kWの水上原発は、07年末までの稼動をめざしていた。地方議会の議員によると、彼らはすでに三つの歩兵本部を設立し、原発も含めて重要な設備の警備に当たることを決定しているという。

 問題は、世界にはまだどこにも水上原発は存在しないということだ。ロシアは今もまだ第1号機を建設しようとしているところだ。それゆえ、安全性と核拡散の問題がある。加えて、まだ国際的な水準の規制がない。

 国内法によると、原子力は地方政府ではなく中央政府の管轄であるので、この問題も浮上する。だから、彼らが直接外国企業と交渉することは不可能なのだ。

● 人々の反応

 10年前の計画に際しても大きな反発がみられたが、今回も大きな批判が起きている。とくにムリアとマドゥラにおいては、地域の人々から激しい反発が起きている。どちらの地域でもデモが行われている。ゴロンタロと東カリマンタンはまだ不確定な計画なので住民からの反応はまだない。

 マドゥラの人々は、まず最初に淡水化施設の原子炉計画に反対の声をあげた。04年には、この計画を撤回させるために地元の大学生がハンストを行った。しかしいつもどおりのことだが、当局から適切な反応は見られなかった。ムリアでの原発建設が有力視されるようになってから、この議論は消えていった。

 昨年、ジュパラや予定地であるバロン村で、ムリア原発反対の大規模なデモが行われた。

 ジョクジャカルタの大学生らの支援を受けて、バロン村の人々も自ら組織を作り始めた。彼らは「バロン村民衆連合」を結成して原発反対のデモを行った。

 最も特筆すべきは、村からジュパラまで35kmを歩くロングマーチを行い、そこにくる予定になっていた技術研究担当大臣に反対のメッセージを届けようとした。ロングマーチには村々から6000人が参加し、老若男女が加わり、赤ん坊を抱いた母親の姿も見られた。

 インドネシア最大のムスリム団体であるNU(ナフダトゥール・ウラマ)のジュパラ支部は、地域の人々のたたかいを支持した。彼らは、イスラム法に照らして原発建設は違法であるとの決定を下した。また、ジュパラ地区のNUの長であるヌルディン・アミン氏は日本と韓国を訪問して、インドネシアへの原発輸出に反対するようキャンペーンを行った。

 一方政府側も、人々を原発賛成へと誘導するための「教育」を行っている。「パブリック・アクセプタンス」に関して学ぶためとして、インドネシアの国会議員や宗教指導者たちを日本と韓国に送る旅行が07年の7月に実施された。私も派遣団の一因として参加することを要請されたが、「原発をいかに市民に受け入れさせるか」をテーマとしたこの旅行への参加を私は拒否した。代わりに私は、原発建設もPA活動もやめるよう大統領に対して書簡を送った。

 07年12月にバリで行われた気候変動枠組み条約締約国会議に際しては、ジャカルタ、バロン村、マドゥラ島などから結集した反原発の人々が一堂に会し、これからの活動や計画について話し合った。ここでは、WISEアムステルダムの活動家やEU議会の議員などとの出会いがあった。

 国際的な連帯の助けを受けながら、インドネシアの反原発運動は必ずより強くなり、「核の恐怖のない国」という夢を実現できると思う。


1996年4月28日、はじめての原発反対デモ(ジュパラにて)
このあとすぐに軍に全員連行された


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