ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.75より

フィリピン・バターン原発閉鎖について


                                   今井なおこ


                    バターンでのたいまつデモ(第5回NNAF)

1.1970年代のフィリピン政治

マルコス戒厳令体制と工業化政策

伝統的に各地方の有力な家族が支配し、容易に改革とそれに必要な権力の中央集権を許さないフィリピンの政治風土の中で、1960年代後半に登場したのがフェルディナンド・マルコスである。彼は65年の大統領選で現職のマカパガルを破って当選、69年の大統領選に圧倒的大差で再選し、フィリピンのこれまでの政治サイクルを変えてしまった。そして72年には戒厳令を発動し、憲法の大統領三選禁止規定をあっさり破棄する。そしてフィリピン議会はその機能を停止され、独裁権力を持ったマルコスは次々に大統領令を布告し「新しい社会」建設を目指す政策を実施した。

マルコス政権は73年「経済開発4ヵ年計画」(74〜77年)を発表し、これはその後「新経済開発5カ年計画」(78〜82年)に引き継がれる。このように、戒厳令を境に70年代のフィリピンは開発独裁者マルコスを中心に工業化政策を推し進めていく。

その基本は、輸出指向型工業化であった。これは従来からの輸出商品であった椰子製品、砂糖、木材、銅精鉱以外の開発に重点をおいて推進された。具体的にはまず輸出加工区を設置し繊維やエレクトロニクスなどの多くの人手を要する工業を海外から誘致し、さらに鉄鉱石の一次加工、銅やニッケルの精錬といった一次加工型工業を興すことが計画された。

GDP比で産業構造の変化を見ると、70年は農業31.9%、工業24.6%、サービス業42.5%であったが、78年には農業26.1%、工業34.5%、サービス業39.4%となり、農業と工業の比率が逆転している(アジア経済研究所『アジア諸国のエネルギー問題』1981)。

そして、これらの輸出加工区や一次産品加工工場向けの電力供給を安定化させるため、水力、地熱そして原子力による発電の電源開発も推進された。

バターン輸出加工区の建設

輸出加工区は、地付きの農民漁民を多数移住させた跡に巨大工業団地を建設し、原料の輸入や製品の輸出に対して関税を課さないなど各種の優遇措置がとられ、輸出向け商品生産にあたる外国資本を誘致する工業開発プロジェクトである。

ルソン島のマニラ湾入り口の北側にあたるバターン半島のマリベレス地方がその最初の建設地として選ばれた。このバターン半島は第二次世界大戦中、日本軍が連合軍のアメリカ兵やフィリピン兵また一般市民をも犠牲にした「死の行進」を行った場所として知られている。79年にはすでに71社の外国企業がバターン輸出加工区に進出し、衣類、車体、時計、エレクトロニクス、玩具などを生産、輸出している。

このように、輸出指向型工業化は大量の外国資本の導入を不可欠な条件としていた。これらの資本の大半は歴史的関係のある米国また新規参入した日本資本であった。これら外国資本にとっての最大のメリットは低賃金で豊富な労働力が調達できる点である。またこの加工区における総生産額の70%は輸出に当てられる。つまり、マルコスに優遇された外国資本が、再び外国に輸出する製品を生産する場所なのだ。

そしてフィリピン労働者にとってこの加工区建設は更なる貧困を招くものになった。
 「輸出加工区における労働者の基本給を規定している大統領令による最低賃金は、名目賃金を上回る上昇率を示しているが、それでも消費者物価上昇率には遠く及ばず、労働者の生活は苦しくなるばかりであることがみてとれよう。さらに78年から81年にかけてほぼ毎年引き上げられた賃金も、実際に支払われているのは経験年数の多い労働者に対してのみで、働き始めて2、3年の者は最低賃金さえ受け取っていないのが普通となっている」(横山正樹『フィリピン援助と自力更生論−構造的暴力の克服−』1990.明石書店)。

このようなマルコスの工業化政策はフィリピン経済また国民の自立には繋がらず、経済先進国への更なる従属性を招く結果となる。

公共投資による外国資本の為の電力開発

これらの輸出加工区また外資による鉱物資源の一次加工プロジェクトに必要な電力を供給するために、マルコス政権は次々に公共投資による電源開発を行った。

マルコス政権は外国からの融資を主な資金源として積極的な財政投融資を展開し国有企業の拡大を行い、その中の重要な13の国有企業を中心に大規模な公共投資が行われた。公共投資の主要な部分がエネルギー、運輸、水道部門等のインフラ建設に向けられた。

中でもエネルギー部門への投資が際立っている。これは74年以降2度にわたる石油価格高騰による貿易赤字の急増に対処するため、PNPC(フィリピン電力公社)が地熱発電、水力発電、原発の建設に巨額の資本投資を行った結果である。とくにバターン原発の建設費がこの資本投下を巨額なものにした(森澤恵子『現代フィリピン経済の構造』1993.剄草書房)。

従来フィリピンの電力供給は7〜8割が石油火力発電に頼っており、石油の全量を輸入に頼っている。主な石油輸入先はサウジアラビア、クウェート、イラク、インドネシアなどである。77年には輸入代金支払いに8.6億ドルを要し、これは総輸入に占める割合の20%にまで達している。そこで、急速に増加する輸出加工区の電力需要を補うため、過度の石油火力発電への依存を脱却し新たなエネルギー開発を進めた。

2.米国による原発輸出

米国の国内市場崩壊

フィリピンの工業化政策に伴う新たな電源開発の中の原子力部門にいち早く目をつけたのが米国である。米国は55年にすでにフィリピンと原子力協力協定を結んでおり、原子力開発における関わりは早い時期からあった。これは、「原子力の商業用利用に関する協力協定」である。米国の「平和のための原子力」計画のもと、米国が研究炉のための情報、器機、燃料をフィリピンに提供するというものである。

一方アメリカ国内での原発の発注数は70年代に入ってから急激な伸びをみせた。70年から74年にかけては104基の発注があった。ところが、73年の41基をピークに発注数は激減し80年代になると発注はなくなる。また一度発注を受けたものもキャンセルが相次いでいる。

これにはいくつかの理由があるが、一つは73年の石油ショックで需要の伸びが落ちたことである。また、建設費やウラン価格の上昇も大きな要因となった。ウランのポンド当たりの価格は68年に6ドル80セントだったものが77年には60ドルにまで上昇している。このほか、原子力の安全性や信頼性についての不安が電力業界内外で高まりをみせ、反対運動の強さが後押しし、国内で原発が売れなくなった。とくに米国の大手プラントメーカーであるウエスティングハウス社(WH社)の場合この影響は深刻だった。WH社とゼネラルエレクトリック社(GE社)は55年から78年に発注された215の原発のうち前者が79、後者が69という割合であったのだ。またWH社は収益の10%を原発からあげていた(田窪雅文「安全性と民衆を無視したフィリピン原発」『公害を逃すな』1985.2月号)。

このような国内状況を見れば、米国の原発プラントメーカーがアジアに対し原発輸出を企てるのは当然の成り行きだった。その一つにバターン原発の計画がある。

74年、フィリピン政府は60万kWの原子炉2基の建設を含む原発に応札するようにWH社とGE社に要請する。GE社は2基について7億ドルという計画4巻を送付した。WH社はやはり2基についてパンフレット一冊と5億ドルの見積書一枚だけを送付した。そしてマルコスは周囲の異議にも関わらずWH社と契約した。

その後価格は変更され76年正式契約する際には1基11億ドルまで値上がりしていた。

原子力産業を支える米国輸出入銀行

米国原子力産業を支えるため、大きな役割を果したのが米国輸出入銀行である。59年から79年までの間に16カ国に対する48基の原発と燃料の売込みを支えた。それは直接のローンと保証合わせて60億ドルにのぼる。米国内の市場が崩れた74年から76年の間には26億ドルのローンと保証を提供している。87年の時点でローンや保証などを合わせた原発関係部門の累積額は49億ドルで、輸出入銀行における業務の全部門の19%にも達していた。

このように原発は輸出入銀行が最も力を入れている分野であるが、その最大の恩恵を受けたのがWH社であった。74年から76年6月の間に同社が輸出入銀行の援助を得たプロジェクトの数は11で、一方GE社は7つであった(同上)。

そして、75年末バターン原発の総工費11億ドルのうち、6億4400万ドル(このうち2億7720万ドルはローン、残りが保証分)が米輸出入銀行から、また5000万ドルが東京銀行(現東京三菱銀行)と富士銀行(現みずほ銀行)を始めとする日本の銀行5行からの融資でまかなわれた(大川宝作「米国のフィリピン原発輸出許可に抗議する!」『公害を逃すな』1980.4月号)。これは直接のローンとしてはそれまで最高のものであった。

しかし、この額はフィリピンの経済状況や返済能力、原発そのものの経済性などについてまともな検討をしたうえの決定とは思われない。なぜなら、75年末のフィリピンの累積債務は38億ドルに達し、これは国民総生産(GDP)の24%にも達していた。

また前述したように、WH社の建設費の見積もりは1基11億ドルと急激に上昇していた。これはユーゴスラビア、台湾への輸出用のものより15%高になっていた。このような見積もり額の上昇について質問された当時の輸出入銀行総裁ウィリアム・ケーシーは次のように述べている。

「WH社にどれだけ要求すべきだなんてことは言えない。WH社が高すぎる額を要求してもフィリピン政府は支払わなければならない。連中の政府なのだから、まきあげられないように自分で自分を守るしかない」(同上)。

要するに、正当な額など知りようがないのである。こうしてWH社を支えるコストのツケをフィリピン国民とアメリカ国民が払わされるのである。

その後スリーマイル事故が発生し、事故を起した軽水炉がバターン原発のものと同型であったため、マルコス大統領は建設をストップし事故調査委員会を設置する。この事故を教訓に15か所の改良を施し、建設費は当初の11億ドルから19億5千万ドルと2倍近く高騰する。それは当初の見積もりの約4倍にまで膨れ上がっていた。そして、最終的な輸出入銀行のフィリピン政府に対するローンおよび保証は13億7000万ドルに達した。

IAEAの役割

もう一つフィリピンの原子力開発に大きな影響力を及ぼしていたのがIAEAである。60年、米国の影響力の強いIAEAは、「フィリピンにおける原子力の見通し」という報告書を出し、マニラのあるルソン島で原子力は他の形態の発電と競争できるものになり得ると述べる。64年には、原子力発電予備調査を開始し、2年後その調査結果をまとめ、マルコス政権に原発建設を勧める。

71年、フィリピン政府はIAEAに原発建設についての「計画実行可能性調査(フィジビリティー・スタディー)」に手を貸すよう依頼する。これは、米国のコンサルタントが行ったが、資金を提供したのは国連開発プログラム(UNDP)であった。

IAEAは73年、マルコス大統領に報告を提出し、原発が火力よりも安くつくと述べる。これを受けた大統領は電力開発計画の中に原子力発電を入れるよう命令する。そして同年IAEAのRCA協定に調印する。

このように、原発計画は、米国とIAEAが戒厳令下のフィリピンに原発を売り込み、国内の議論もないまま独裁者マルコス大統領が導入を決定したという構図が浮かび上がってくる。

3.バターン原発の問題点

安全を無視した用地の決定

このように、米国の低迷する原子力産業、それを支える公的資金、また石油以外のエネルギー開発を進めていたマルコス政権、これらの立場の利害関係が一致しバターン原発の建設は着工された。

戒厳令下のフィリピンにおいて十分な話し合いや説明のないまま計画は決定され実行に移されたのだ。

このように、原発建設の過程そのものに多くの問題を含んでいるが、安全の面でも多くの欠陥があった。バターン原発用地付近には5つの火山があり、うち4つは活火山である。そのうちの1つナティブ火山の火口の縁からたった9キロ離れているだけであり、フィリピン断層と西ルソン断層の中間に位置している。また、ニトベ火山の火口からは14キロの距離で原発は同火山の裾野上にあるとも言える。噴火があれば、地盤の振動はもちろん、用地内に溶岩が流れ込んでくる可能性もあるとNRC(米国原子力規制委員会)レポートさえ認めている。そして、地震を起す大断層が16キロ以内の場所を走っており、地震が起こった際は津波被害を受ける可能性が非常に高い。また、「強い地震は重力加速度のたった40%というバターン原発の最大許容限度を超す水平方向の力を引き起こすであろう」(宮嶋信夫編『原発に向かうアジア』1996.平原社)とも指摘されている。

構造上の欠陥

バターン原発はその安全性よりも、WH社やマルコスの利益が優先され、腐敗や賄賂また買収の元でその建設が進められた。このことについては、次の項目で詳しく述べる。つまりプラントの設計・施工では経費を切り詰め、期間内で工事を終らせようとする抑圧的な雰囲気の中で建設したため、その結果安全性については妥協せざる得ない状況になった。

建設前直前の最後の阻止手段とされていたNRCの環境影響アセスメントも76年、「同原発のフィリピン国内での影響・安全性の問題については他国への主権侵害になるため、審査はできない」(岡部アキ「フィリピンへの‘原発公害輸出’反対運動」『公害を逃すな』1977.3月号)という見解を示した。要するにNRCは国際的、地球規模での環境影響・安全性のみ審査できると言っているのだ。公的資金を導入し、原発を輸出している国が、その安全審査の時になって「主権侵害になる」と主張しているのだ。

米国は経済面また軍事面においてもフィリピンに深く介入しており、それを「外国援助」と位置づけている。一方で、自国の輸出したものへの責任を全うしてくれと言うと、それは「他国への干渉」だと言うのである。このように、輸出する側の安全調査や事故発生時の責任の所在が明確にならぬまま建設が始まった。

そして、79年スリーマイル島事故が発生する。この原発がバターン原発と同じ加圧水型軽水炉(PWR)だったため、一年以上も工事が中断された。スリーマイル事故を教訓に15か所の改良を施したことや、工事の遅れも重なり、建設費は当初の11億ドルから19億5千万ドルへと2倍近くに高騰した。しかしながら、この調査で実際発見された欠陥は400か所以上とも言われている。その時明らかになった欠陥には次のようなものがある。

「(1)放射能に対する第一線の防御であり、ぎりぎりの遮蔽として働く格納容器に欠陥がある。防水が不適切である。格納容器の中には『蜂の巣状』にエアーポケットの穴があり、放射能の漏洩に対してばかりでなく、地震の際のひび割れや破壊に対しても弱くなっている。(2)電気配線のケーブルは被覆がなく、大電流が流れればアークが飛びやすい。(3)ケーブルを固定しているボルトのトルクは要求規準以下である。これらのケーブルは地震の際緩んでしまうかもしれない。(4)原子炉の重要な構成機器である蒸気発生器が、備え付けの時損傷を受けていた。適切な修理である蒸気発生器を送り返すことをしないで、かわりに現場で仮の処置が行われた」(宮嶋信夫編『原発大国へ向かうアジア』1996.平原社)。

また、この一時工事中断の影響で発電コストが石油火力発電と変わらなくなり、稼動後の経済性も疑問視される結果となった。

マルコス政権とWH社との不正取引

バターン原発建設において構造的な安全面もさることながら、そもそもその建設決定を巡る段階で大きな問題があった。それは、マルコス体制下の政治腐敗の象徴ともいえる賄賂問題である。

フィリピンで営業しようとする米国を始めとする大企業の中で、「コミッション」という名のもとでマルコスやマルコスのエージェントに渡したリベートの大きさではWH社の右に出るものはないとさえ言われている。このバターン原発プロジェクトに関しては、マルコスらは、WH社とともに米国・日本から1120万ドルのコミッションを受け取っていたとされている(ベリンダ・A・アキノ『略奪の政治マルコス体制化のフィリピン』1998.同文館)。

75年3月WH社は秘密裏に2基の原子炉の価格を当初の入札価格、つまり5億ドルから11億ドルに吊り上げた。この取引は直ちに国会の野党議員であるアキリノ・ピメンテルによって公表され、「フィリピンにおいて、かつてない最大のドル詐欺である」と言われた。いずれにせよ、フィリピン電力公社は原子炉1基だけを11億ドルで建設することに同意した。公式入札も公開討議もなくたった数ヶ月のうちに5億ドルから11億ドルに価格が跳ね上がった背景には政権内の少数の人々がかなりの富を得ていたということが考えられる。つまり、原子炉の価格が急上昇したのは賄賂がもっとさかんに行われたことを意味する。また、米国輸出入銀行や米国大使館が価格引き上げに協力したことも明らかになっている。ここで大きな役割を果した人物が、ヘルミニオ・ディシニである。

「ディシニは戒厳令以前の全く無名の存在から、タバコ産業、不動産業、コンピューター事業を専門とする40社あまりからなる資産10億ドルのコングロマリット・ヘルディスグループの『ゴッドファーザー』にまで成り上がった。マルコスとはイロカノの同郷人であり、ゴルフ仲間であるという関係から、イメルダ・マルコスの従姉妹のインダイ・エスコリンと結婚して姻戚関係を結んだ」(同上)。

マルコスはWH社に建設を要請した後、バーンズ・アンド・ロー社とコンサルタント契約を結び、その後この会社の「特別営業担当重役」としてディシニを雇用した。WH社は少なくとも1700万ドル(これはWH社が法廷で認めた金額)の賄賂をマルコスとディシニに送り、下請けにディシニのもつ複数の会社を選ぶことで、落札に成功する。つまり、WH社が原子炉の価格を引き上げた背景はコミッションとして渡す巨額の賄賂を捻出するためだったのだ。

4.反原発運動からバターン原発の現在

市民による反原発運動

戒厳令下で反原発を公に叫ぶことは非常に危険なことであった。そのような中、自らの危険や弾圧に屈することなく反原発を訴えた人々の存在があった。128におよぶフィリピン国内の多様な運動体の連合として、81年、非核フィリピン連合(NFPC)が結成された。NFPCは、まずバターン原発の建設・操業停止を緊急目標として活動した。とくにバターン地域において住民への教育キャンペーンが展開された。そして、バターンには、「非核バターン運動(NFBM)」という州規模の運動団体が結成された。以下反原発運動の中心となって活躍したソニア・P・ソト氏の97年のノーニュークス・アジアフォーラムにおけるスピーチの一部である。

「フィリピン民衆はバターン原発に対する輝かしい闘いの歴史を築いてきた。70年代から20年間続いてきたこの闘いは、現在の世代に、そして次の世代へと継承されている。かつてバターンは反原発の中心地であったが、現在も反核の闘いの最前線であり続けている。ここでバターン民衆と全フィリピン民衆が勝ち取ってきた教訓は、現在の国内外の反核運動にとって一つの指針となっている。

マルコス独裁政権下での反核の闘いを担ってきたのはバターン民衆であった。70年代後半になって建設が始まると、バターン原発はたちまち絶え間ない民衆の抗議の的となった。76年には、すでに尊い血が流れている。住民を鎮圧しようとする攻撃の中で、傑出した活動家であり、バターンの地元住人であったエルネスト・ナザレノが凶弾に倒れた。しかし、民衆はひるむことなく、彼の殉死を目の当たりにしてさらに戦いを確かなものとした。

しかし、マルコスはバターンに次々と増強部隊を送り込み、建設を強行していった。81年以来保安部隊や警察部隊も無数に配備されており、工事が終った82年にはフィリピン海軍の1個大隊が増強配備されていた。

そのような中で、次に原発の運転を阻止する闘いが展開された。82年から84年にかけてバターン民衆は近隣諸州およびマニラの仲間達との協力・参加のもとに、継続的な反核キャンペーンと教育活動に着手した。草の根レベルでの組織化が進んでいったのもこの頃である。『非核バターン運動』もこの時期に産声を上げた。そして84年には民主化を求める民衆団体と並んで、我々はマルコス政権にとっての脅威となるまでになった。

84年の国際人権デーにあわせて『非核バターン運動』を中心としたバターン民衆は初めての全州規模の抗議運動を行った。『バターン原発はいらない、マルコスは退陣せよ』の声に応えて、何千という民衆が路上に結集し、かつてない戦闘的で大規模な民衆ストライキを行った。

この民衆ストライキはさらに激しく広汎な85年の闘いへの序曲であった。すでに四面楚歌の状態にあったにもかかわらず、マルコス独裁政権は民衆の抗議を武力で鎮圧し、バターン原発を稼動させようとした。この年の暮れまでには核燃料が装填される計画となっていた。

この極めて重要な時期、バターン民衆は近隣諸州およびマニラ民衆とともに、さらに85年にも民衆ストライキを決行した。ある地点では5万人を越える民衆が市街を埋め尽くし、フィリピン軍の戦車や装甲車に立ち向かった。ピープルズ・パワーがこのバターンの地で初めて爆発したのだった。それからマルコスが倒れ、アキノ政権は86年にバターン原発の閉鎖を余儀なくされた」(ソニア・P・ソト「バターン原発との闘い、これまでと現在」『第5回ノーニュークス・アジアフォーラム報告集』1997)。

このように、バターンの反原発運動は、輸出加工区での賃金や労働条件改善を求める労働運動、さらには政治的要求を掲げるようになり反マルコス運動そして民主化を求める運動に発展していった。また、原発に限らずあらゆる核をフィリピンから撤去させようという活動となり、87年には非核憲法が採択され、91年にはフィリピンから米国を始めとする全ての外国の軍事基地と軍隊および核兵器が撤去された。

フィリピン大学マニラ校のローランド・シンブランはこのようなエンパワーメント(民衆の内なる力の強化)こそが、問題解決の鍵となると述べている。

 「人々は開発の受容者や受け身の犠牲者であるより、自らの人生における行動者となる能力を我がものとしていくのです。人が犠牲者の立場に決別し、抗議し、提案し、そして新たな社会を建設する立場へと移り変わる時、必然的に新しい展望と新しい発展のテーマに挑戦するようになります。このような民衆のエンパワーメントのプロセスはたゆむことなく続けられます」(ローランド・シンブラン「アジア革命の復活・民衆のエンパワーメントのための反核運動と闘争」『第5回ノーニュークス・アジアフォーラム報告集』1997)。

マルコス政権からアキノ政権へ

原発の廃止が決定的となったのが86年2月マルコス政権の崩壊である。またチェルノブイリ事故も廃止に向けての決定打となった。前述したとおり「原発=マルコス政権」という考えが人々の中に広がり、マルコス政権打倒の政治運動と反原発運動が結びついた。そして、マルコスに替わり政権を獲得したアキノ大統領は86年に98%まで完成していたバターン原発の運転許可を認めず、同年4月30日廃止を決定した。

大幅な価格の引き上げと2つの大規模な原発事故により、その安全性に疑問が持たれ、また経済性も当初の計画通り採算がとれないことが分かった。そして、マルコスの側近やその関係者の建設会社などとWH社また米国輸出入銀行による不正取引が暴露されたことも閉鎖の一因となった。

しかし、原発閉鎖が決定されたとはいえ巨額の負債がフィリピン政府また国民のもとには残された。フィリピン政府は81年からバターン原発の借金返済を始めたが、その額は利子だけで、1日35万5000ドル、1年間で1億3000万ドルにものぼる。

フィリピン政府とWH社の訴訟

88年9月から11月にかけて、フィリピン政府とWH社らの間で和解交渉が開かれたが、WH社側は発電所は完璧だったと主張し、欠陥部分のあることを認めず交渉は失敗した。

同年12月フィリピン政府はWH社に対して2件の訴訟を起した。1つ目はニュージャージーの地裁で、WH社とバーンズ・アンド・ロー社を贈収賄の容疑で刑事告訴し、契約の取消を求めた。判事は取り消し訴訟をジュネーブにある国際商業裁判所に付託した。しかしながら、裁判所は、WH社によるディシニに対する贈賄、マルコスに対する贈賄の意図は認めたが、マルコスの収賄については証拠不十分として契約は破棄できないとした。

また、その後市民に公表されることなく89年から90年の間法廷外での和解交渉が行われ、対案が模索された。92年、和解案は議会の承認を条件とし仮調印され、訴訟は延期された。その後上院・下院とも和解案の条件を拒否しながらも、決議自体は承認する事態をとった。そして、92年3月アキノ政権はWH社と1億ドルで和解すると発表した。この和解案は驚くほどWH社側に偏ったものだった。

「このとき出された和解案は、『モロンの怪物』(バターン原発はモロンに建設された)をWH社自身の手で復活させようとするものでした。活断層があり、火山地帯であるバターンに原発を設置することの危険性について多くの研究がなされ、すでに結論が出ているにも関わらず、それはいっさい無視されています」(コラソン・ファブロス「民衆がとめたバターン原発、しかし新たな原発もくろみ」『ノーニュクス・アジアフォーラム93報告集・いのちの風はアジアから』)。

NFPCの事務局長コラソン・ファブロスさんは以上のように述べている。また、この和解案に対しフィリピン各地で抗議運動が起き、ロビー活動を始め地方への教育キャンペーンを行い、この不平等な和解案を放棄することと、バターン原発を永久に放棄することを求める運動を行った。この活動において、「バターン原発反対ネットワーク(NO to BNPP)」という反核組織が新たに設立された。

そして裁判所が定めた期限の2日前である92年12月、ラモス大統領はWH社の和解案を拒否し、訴訟を続けることを決意した。翌年5月フィリピン政府が提訴していた刑事訴訟はWH社の勝利となり、フィリピン政府は上訴した。

そこでWH社は、係争中の訴訟延期とWH社製品締め出しの撤回と引き替えに、バターン原発転換計画のもとにガスタービン2基を提供することで和解を目指した。しかしそれは支払いの一部が延払いで利子分だけWH社が得をし、また提供されるタービンの輸送費用、保険等はフィリピン持ちという内容であった。ラモス大統領は、その価格が妥当でなかった上、バターン原発のような争論で支持率を失うリスクを負えないといった理由から、これらの案を拒否した。

その後も同様に一方的な申し出がされたが、フィリピン政府は一貫してこれらを拒否してきた。95年10月、WH社は再び1億ドルの和解案を申し出て、フィリピン政府はこれに調印した。この時点でWH社はあらゆる責任から解放され、前述の通りフィリピン政府と国民には借金だけが残される結果となった。

現在のバターン原発とフィリピンのエネルギー

バターン原発は現在、年間1億円の維持費をかけながら、買い手の現れるのを待っている。海に面した500ヘクタールにおよぶ広大な敷地の中で、働いているのはフィリピン電力公社の職員3人と補修や清掃にあたる作業員10人だけである。アラベロ・バターン原発マネージャーは「ここは原発の訓練センターとして使えるし、遊園地のようなエンターテイメント施設にも転用可能だ。とにかく早く売却することで、国民の負担を減らしたい」(中国新聞「原子力を問う−アジア・アフリカからの報告」2004.2.29)と述べている。バターン原発は、マルコス時代の「負の遺産」として残されたまま現在に至っている。

そして、このバターン原発閉鎖以降フィリピンでは新たな原発建設はない。原子力は2010年までの中期エネルギー計画には盛り込まれておらず、当面新たな原発を建設する可能性はないだろう。

しかしながら、ラモス大統領時代の95年に策定された長期エネルギー計画では2022〜25年に出力計240万kWの原発建設の可能性を示唆しており、将来経済発展などによって著しい電力不足に陥った場合は再び原子力を選択する余地を残している。

エストレラ・アラバスドロ科学技術庁長官は、今後のフィリピンの原発についてのインタビューに対し次のように答えている。

「原子力にはいろいろ利点がある。地球に悪影響を与えるさまざまな温室効果ガスを出さないことが最大の長所だ。とはいえ、フィリピン社会は使用済み燃料の処理などでいろいろ問題を抱えていることも知っているから、いまだに原発に対しては反対の立場だ。・・・・技術開発は必要だが、それより政治的な判断が最も重要ではないだろうか。バターン原発は極めて政治的な問題になったため廃止された。社会が原発を受け入れるようになるまでは原発建設は難しい」(同上)。

何よりフィリピン社会や住人の受け入れがなければフィリピンに再び原発が建設されることはない。また一方で、民衆への受け入れを促す様々なプログラムを提案するIAEAや日本を始めとする国々による新たな原発売込みが行われている事実もある。

また、今後電力需要は年率8.9%の割合で増加すると予測されている。このような急激な電力需要に対しフィリピン政府は「フィリピンエネルギー計画(PEP)2000」を立てた。この計画の中では自給力確保という戦略をとり、石油エネルギーから脱却することを目指している。

そして、天然ガス・地熱・石炭など新たな国産エネルギーの開発に取り組んでいる。また電力産業の構造を改革することも進められている。かつてはフィリピン電力公社の独占業務であったが、大統領令により民間部門の投資が許可された。これにより、独立系の発電者も電気を生産、販売することが可能になり、現在では生産される電力の90%が民間投資によるものである(原子力資料情報室「フィリピンの省エネ事情」『アジアにおける持続可能で平和なエネルギーのためのネットワーク2000年度ワークショップ報告集』)。

かりにこれらのプログラムが全て適切に実行されれば、再び原発を建設する計画は実行されにくい。しかし2022年以降における原発建設計画はラモス政権以降から存在しており、フィリピン社会の受け入れ体制が整えば実行に移される可能性は確実にある。

5.おわりに 〜アジアへの原発輸出〜

アジアへの原発輸出の背景には輸出側の政府また企業の利益と、受け入れ側の一部の人々の利害関係がある。これは上からの原発推進であり、地域に住む民衆から自発的に起こる要請に対して建設を計画するのではないことが明らかだ。よって、マルコス政権のような独裁政権下では原発建設が推し進め易い。建設までのプロセスは公開されず、反対運動に対しても厳しい弾圧が加えられるのだ。しかしながら、抑圧的な政治体制の下フィリピンの人々は原発反対の声を絶やさず、それは後にマルコス独裁政権に対し民主化を求める運動に繋がっていった。そして、マルコス退陣と同時にバターン原発の閉鎖が決定された。バターン原発が稼動しなかった原因はフィリピンの政治的事情による部分が大きいが、これは反原発が政治における大きなテーマの一つになっているからである。

近年、台湾でも日本からの原発輸出に対し様々な論議が行われ、それは現政権の存続さえ揺るがす大きな政治問題になっている。

86年のチェルノブイリ事故以来その安全性や放射能被害の深刻さについての共通認識がある中、いまだに原発建設はすすめられている。原発は危険であるという認識をもちながらも、アジアに対して原発を推進する国々があり、現在その代表的役割を果しているのが日本である。増え続けるアジアへの電力消費に対し原発を輸出することでアジアへの「協力」を果していることになるのであろうか。

一方、「原子力の平和利用」といわれる原発だが、その裏にはプルトニウムの生産による核開発への道を開くことをも可能にしている。新たな国に原発が建設されることは、新たな核保有国が増えることを同時に意味している。原発輸出が核武装への選択をする可能性を与えていることも指摘したい。また、核廃棄物の埋め立て場所を巡り、さらに貧しい国や地域そして人々にその廃棄物が押し付けられる可能性が考えられる。

以上のことから、原発輸出は決してアジアの人々の平和で安全な暮らしを築くことには繋がらない。それは逆にアジアの国々の間での摩擦を生みアジアの共同体を壊すものになりかねない。

このような原発輸出を食い止めるため何をすべきなのか。そこで「アジアの市民レベルの連帯」ということを提案したい。

現在、原発建設にあたり市民の受け入れ(パブリック・アクセプタンス)ということが重要なテーマになっている。アジア各国におけるこれらの推進活動は日本を手本にしており、かつて日本で行われた方法と同じことがなされている。そしてこれは、原発建設の有無が市民一人一人の意志に委ねられていることを示している。日本では新潟県巻町で原発の是非を巡っての住民投票が行われ、原発建設がなくなったケースもある。また原発を巡る問題は、その輸出の構造また事故発生時の被害の広がりからみても分かるようにもはや一国だけのものではない。それは、アジア地域全体の問題になるのだ。

そこで、アジア地域全体が共通認識として原発についての正しい知識を入手し、またそれぞれの国での原発を巡る情報を密に交換していく必要がある。何よりも電力の恩恵を受けている一人一人が、日々使用している電気についてそして原発についてより多角的、また長期的視野を持って考えるべきである。原発について各々が意見を持ち、何よりもそれを外に示していくべきだ。そしてアジアに住む一人一人の「原発反対」の意志が一つになった時、それは原発輸出また原発そのものの建設や稼動を止める大きな力になり得るのだ。

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