ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.72より

台湾第四原発現地で
「非核社区国際交流ワークショップ」


台湾緑色公民行動連盟が、臨界事故被害者の会の大泉実成さんを招いて「非核社区(コミュニティ)国際交流ワークショップ」を行った。とーちと佐藤が同行させてもらった。2月17日の到着日は、台北で、いくつかの反原発団体との懇談会をはさんで、2回のラジオ出演、大泉さんが東海村の被害者の状況を語る。

18日午前は、宜蘭県の劉守成知事を訪問、田秋菫立法委員も参加、記者会見も兼ねる。宜蘭県は台北県のとなりで第四原発に近く98年には第四原発の是非を問う県民投票も行った。今年4月には県主催で「緑色映画祭」を行う。

午後、第四原発を視察、03年6月に運ばれてしまった日立の1号機圧力容器も、04年7月に運ばれてしまった東芝の2号機圧力容器も、いまだ据え付けられておらず、さびついていた。


日立の1号機圧力容器

2年前に元GE(ゼネラル・エレクトリック)の菊池洋一さんが指摘した鉄筋のさびも潮風でいっそうおびただしい様子。

民進党政府が追加予算を認めていないこともあり、工事が遅れているのだ。99年3月着工で、工事進捗率は43%。2006年7月15日運転開始予定は少なくとも2年は延びるだろう。まだまだ運転をとめるチャンスはある。

敷地内では、使用済み核燃料の貯蔵施設も建設中だった。設計はGEと清水建設とのこと。これは当初の計画にはなく、環境影響調査も安全審査もしていない。そんなのありかよ!

現地貢寮郷の人たちは、第一・二・三原発からも使用済み核燃料が運ばれ、永久貯蔵になるのではと心配していた。

台湾電力の副所長に耐震設計を聞くと400ガルだと。同じABWRの、浜岡5号は600→1000ガル、柏崎6・7号は450ガル。400ガルだとすると問題だ。

夜、呉文通さんちで「こんにちは貢寮」の日本人向け試写会。この映画を日本でも広めてほしいとのこと。

19日朝、第四原発目の前の「抗日記念碑」を見て、10時から敷地に接する貢寮郷澳底仁和宮で「非核社区国際交流ワークショップ」。

まず、大泉さんがJCO臨界事故と被害の状況を話す。数百mで被爆した人々・・・・。自分の両親の体の具合・・・・。貢寮郷の人たちは我がこととして聞いている。炉心から500mとか1km程度の距離のところに1万人近くの人が住んでいるのだ。

大泉さんは被害者の裁判についてこう言う。「勝てば、原子力事故による住民被害が初めて認められます。もし万一負けて被害の事実が認められなかったら、日本は被害者を切り捨てる国家だということがハッキリしてしまうわけです」。原子力を問う極めて重要な裁判なのだ。

とーちと佐藤からは、日本の原発の危険性(ひび割れ・減肉・耐震設計など)について報告した。

貢寮現地、塩寮反核自救会の呉文通会長は「政治家にたよっているだけではだめだ。自分たちで新しい行動を起こそう」と。

蔡森さんが第一・二原発現地の状況を報告。核廃棄場候補地とされた遠く離れたウーチョウ島から高丹華さんもかけつけた。さらに、緑色連盟の陳建志さん、頼偉傑さん、崔?欣さんや、楊貴英さんなど貢寮郷の人たちや、台北からの参加者たちが発言、有意義な情報交換、討論の場となった。夕方から「こんにちは貢寮」の上映会。

台北にもどってからは、・順貴弁護士と訴訟の可能性について意見交換、環境保護連盟の施信民さん、高成炎さん、陳椒華さん、郭金泉さんと次回NNAFについて相談、台湾在住ジャーナリストの酒井亨さんと原住民族(先住民は「先に往ってしまった民」という語意を持つため原住民・原住民族と自称している)の酒、趙永清立法委員との懇談などを行った。 (佐藤大介)


貢寮の悲しみと台湾の矛盾

大泉実成(臨界事故被害者の会)
 
今回、緑色公民行動連盟の招きで、生まれて始めて台湾の地を踏んだ。

原子力をめぐる台湾のメディアの現状は、日本に比べればはるかにましだった。東海村の臨界事故は、被曝事故が起こったときに、原子力推進連合体である国、科学技術庁、原子力安全委員会、原子力事業者がいかに役に立たないかを証明してみせた。初日に行った台湾のラジオ局で、僕はそうした話を何の気も使わず話し、それは台湾側のパーソナリティに実に深く理解された。日本のニュース・ステーションのリハーサルで「科学技術庁は信頼できない」と言った時「大泉さん、それだけはやめてください」と止められたことを思い出した。「どうしてそんな当たり前のことを言っちゃだめなんだ」と聞いたがディレクターは答えられなかった。さすがに「科学技術庁から情報がもらえなくなるから」と正直に言うことができなかったのだろう。わが国のメディアに比べて、台湾のメディアは多様ではるかに自由だった。

翌日は宜蘭県の県庁に行った。いきなり県知事が出てきて話になったのには驚いた。臨界事故が起こって5年を超えたが、日本の県知事は一人としてわれわれに会おうとしなかったからだ。地元の茨城県知事にいたっては、逃げ回っていた感がある。宜蘭県知事は深く臨界事故の教訓を理解し、私たちの行っている裁判を心から応援してくれた。知事は公害訴訟について深い造詣を持っていた。観光を重視する県が、いかに環境問題に取り組まなければならないか、その重要性には計り知れないものがあるのだろう。

この日は午後から第四原発の現地に行ったが、正直言ってその立地条件のあまりのむごさにあきれ返った。すばらしい景観の海岸はまさに目と鼻の先にあり、これじゃあ松島に原発を作っているようなものである。さらに事情を聞くと、台湾原住民の遺跡があったとか、動植物あふれる渓流があったとか、近くには海底火山があるとか、まったく言語道断の原発立地であった。

その日の夕方、現地の塩寮反核自救会の呉文通さんの電器店で、彼らの反対運動の歴史をつづった「こんにちは、貢寮」を見た。

これだけむごい原発立地計画だったから、彼らの怒りは計り知れないものだったろう。当然の反対運動だったが、その途上で、多くの現地の人たちが死に、また投獄された。これを見て僕は暗澹たる気分になった。日本企業の利益とアメリカの利権、そして一部の政治家の金のために、原発さえこなければ普通に暮らしていた人々が、どうしてこんな目にあわなければならないのか。

2000年に台湾は革新の民進党政権になった。しかし第四原発の建設は止まらなかった。現地の人たちのはらわたをちぎられるような思いは変わっていない。

僕が彼らに話したことは、実際に原発が建ち、原子力事故が起きたら、国家はあらゆる手段を使ってその被害を切り捨てる、ということだった。臨界事故で健康被害を起こしている人々はそういう意味でまさに「棄民」である。

台湾は現在、民進党政権の下で「非核家園(核のない母国)」運動が行われている。しかし、そのさなかに、これほど理不尽な原発立地が行われようとしているのはひどい矛盾である。国の非核化運動は続ける、しかし第四原発だけは作らせてくれ。こんなむちゃくちゃな話で、現地の人が納得できるわけがないだろう。そういう意味では、貢寮の人々も、台湾政府から「棄民」扱いを受けていると感じた。

核というこのばかげたエネルギーにかかわると、権力を持っている人間の頭はますますおかしくなり、そこで普通に暮らしている人は地獄に巻き込まれる。そのことを痛感した訪問だった。彼らの運動が実を結ぶ日が来るのを、心から祈りたい。


命を紡ぐドキュメンタリー

とーち(奥田亮)/「未来を選ぼう実行委員会」

何度も夢を見る。
貢寮(こんりゃお)の地面を深く掘り下げて、台湾第四原発の炉心部が建設されている。それを見下ろす縁に立つ。15m以上はある。ここから身を投げれば台湾第四原発は止まるのか。私は侵略者でなくなることができるのか。

マスコミはどれだけ取り上げてくれるだろう。NEWS23、筑紫哲也はどうコメントするのだろう。しかしそれでも「今日はこんなところです。」と結ぶのだ。

やはり絵が必要だ。静止画ではダメだ。動画だ。しかし、一部始終、ずっとカメラを回してもらわなければならない。これは難しいことだ。できればプロに撮ってもらえれば、伊藤孝司さんに撮ってもらえたら光栄だ。しかし、確実に撮ってもらうためには、事前に照準を合わせてもらう必要がある。パフォーマンスをするから撮っておいて欲しいと頼むか。しかし、感づかれて止められては元も子もない。日本人だとその可能性は高いように思える。

そうだ、貢寮でいつもビデオを回している緑色行動公民連盟の女性がいる。彼女に頼もう。そうだ、ギターを持とう。ギターを持って、歌っているところを撮ってもらうことにすればいい。そのまま飛び降りれば必ず、撮ってもらえるだろう。この計画ならいける。

ある程度、第四原発のことは知られはするだろう。運動は広がるだろうか。自分で考えることのできる人たちに、この問題を確実に知らせられるか。それができたなら間違いなく、この原発は動きはしない。
本当に、もし、それで第四原発が止まるなら、いったい何を惜しむというのだろう。

彼女のことはずっと気になっていた。英語もそれほど得意ではなさそうで、自分からは必要なこと以外は話さない。
初めて会ったのは1999年10月の訪問のときだ。私は貢寮で、ある「ブルジョア」の別荘だという二階建てのアパートに泊まり、台北に戻った後、その「ブルジョア」が彼女だということがわかった。このときすでに彼女はカメラを回していた。
この日の立法院での私のスピーチに、感動した、といってくれたのも私の記憶に残った。

その後は台湾を訪問するたびに出会っていた。佐藤大介はカメラを持たないから、私が撮影係とならざるを得ない。彼女もカメラを回すため、互いに、光の状態のよいアングルを探してうろうろしたりしたものだ。

環境保護連盟主催の会議では彼女はこっそりと一人で来ていた。私も発言の機会がないので、紙のメモであいさつを交わした。2000年8月には偶然訪れた貢寮でのエコツーリズムの集まりに参加していた。

緑色行動公民連盟の中でも、明らかに彼女はダントツの行動派だと思うのに、正式な場での発言というものは一切なかった。私が知る限り、02年9月、第10回NNAFの女性フォーラムの場での発言が唯一だ。「ドキュメント・フィルムを制作し、環境運動や反核運動をしています」。北川れん子さんや小木曽茂子さんから聞いたその内容で彼女が常にカメラを回している訳がわかった。

しかし、今回「非核社区国際交流ワークショップ」での彼女・崔?欣はこれまでと違っていた。執行秘書の肩書きで、第二部のキャスターをつとめ、きまじめに発言者の紹介をこなした。そして、最後のプログラムは「記録片『貢寮、?好??』」(ドキュメンタリー「こんにちは貢寮」)の上映会だ。そう。彼女のフィルムが完成したのだ。

1980〜90年代、貢寮の人々が激しく反対していたころの映像も含め、原発をめぐる人々の抵抗が描かれていく。なかでも1991年の騒動の中、事故で亡くなった警察官を「殺害」したとして無実の罪に捕らわれ、今も服役中の林順源氏と貢寮の人々との関係に焦点があてられる。そして、これらは客観的に語られるのではなく、監督である彼女自身の林順源氏への手紙という形をとって語られる。

このようなドキュメンタリーを作る場合、おそらく主観を入れず、淡々と綴る方がはるかに簡単で、「安全」だったに違いない。自らの主観を含めたナレーションを入れるのは、ドキュメンタリーとしての客観性を問われかねないし、なにより自分をさらけ出すことになる。その意味で、これはとても勇気のある作品だ、と感じた。

頼青松さんの通訳のおかげで、もう一つ彼女のことを知った。
台湾の住民は、古くから住んでいた原住民(注:台湾では「先住民」はよくない意味合いを持つため「原住民」と自称している)、400年くらい前に大陸から渡り原住民と融合してきた本省人、そして戦後蒋介石とともに逃れてきた外省人に大きく分けられる。彼女は、両親とも外省人だったのだ。そのことで、私は大きな謎が解けた気がした。

第四原発の敷地内に遺跡を持つ原住民ケタガラン族の林勝義さんをNNAFJが日本に招いた際、このように語った。「私たちにとっては、本省人も外省人も後から来た人たちで同じようなものだ。貢寮の人たちも私には遠慮がちなのをあなたも感じただろう?」たしかにそうなのだ。貢寮の人たちも、原住民の林さんといっしょにいるときはなにかと遠慮がちなのである。

私は後ろめたさをもたない人間を信用しない。およそ人間、生きている限りなにがしか他の人を傷つけている。そのことに気がつこうとしない人は信用できない。逆にいえば貢寮の人たちの林さんに対する態度は私にはすごくよくわかったのだ。

崔?欣にとって外省人であることは、原住民に対すること、本省人に対すること、と二重の後ろめたさとなっていたのだ。人によっては彼女のことを「ブルジョア」と呼び捨てていたのもそのせいだろう。彼女がずっと控えめだったのが納得できた。そして外省人ゆえに台湾語(ホーロー語)も上手くない彼女が貢寮の人々に受け入れられるのは、どれほど困難だっただろうか。

私が泊まった「別荘」は彼女がドキュメンタリーを撮るために借りたものだということも聞いた。比喩でなく、彼女は青春の大半をこのドキュメンタリーに込めたのだ。
彼女は、このドキュメンタリーを「とても困難だったけれど、貢寮の人々との信頼関係があって初めて、出来上がった」と紹介した。その困難さは、きっと今の彼女にとって大きな誇りになっているだろう。

自殺は自身に対する暴力だ。
私が中学3年のとき、兄が行ったこともそうだった。実は、私もどう生きるかより、どう死ぬかを考えて生きてきた。しかし、自己に対してであってもそれは暴力だ。
暴力に逃げ込もうとする私と違い、崔?欣はなんと健やかなことだろう。私は1999年からときどき関わってきただけだ。しかし崔?欣は1998年からずっと毎日、毎日、貢寮と向き合ってきたのだ。暴力をすべて否定する気はないが、少なくとも、今の私に暴力に逃げ込む資格はない。
やれることがある限り、人は命を続け、それをやるべきだ。
そしておよそ、人にやれることがなくなるなんてことはない。
崔?欣はこのドキュメンタリーで私に教えてくれた。
私はこの映画に、きっと救われた。

「未来を選ぼう実行委員会」提供のはがきカレンダーは今回で9回目となり、初回と同じ構図で二年半後の写真を掲載しました。今後も続けていきますので、壁に張っておくなどしてぜひご活用ください。すべて並べて張っていただけると、台湾第四原発プチ写真展ができます。次回は日本から輸出され放置された、「錆だらけの圧力容器」の予定です。また、Webサイトには壁紙なども随時掲載していますので、こちらもぜひお使いください。
http://SelectOurFuture.org/



ノーニュークス・アジアフォーラム通信 No.72もくじ
(05年2月20日発行)B5版36ページ   

●台湾第四原発現地で「非核社区国際交流ワークショップ」(佐藤大介)     
●貢寮の悲しみと台湾の矛盾(大泉実成)                   
●命を紡ぐドキュメンタリー(とーち)                    
●台湾第四原発は津波で危険に             
●南アジア大地震・津波から、台湾の原発安全性を見直す(廖新一)       
●三たびプアンへ(沢村和世)                        
●プアン独立新聞 創刊の辞(ムン・ギュヒョン)               
●生命と平和のためのプアン独立新聞創刊を祝賀しながら(キム・ジハ)   
●ジャビルカ鉱区の長期管理協定に調印(細川弘明)            
●時代遅れ/時代錯誤/非科学性の原子力産業(広瀬隆)          
●再処理工場・ウラン試験、設計ミス、MOX工場ほか(福澤定岳)      
●大国の横暴を許すな!(岡本三夫)                    
●IAEAの改革に関する国連への要望(大庭里美)             
●アボリション ナウ! リーフレット発行 (大庭里美)  
●「珠洲原発阻止へのあゆみ−選挙を戦いぬいて」 発刊(北野進)  

***********************************************************
見本誌を無料で送ります。ココをクリック
年6回発行です。購読料(年2000円)
***********************************************************
[目次へもどる]