ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.65より

韓国政府の暴力的原子力政策を糾弾する
プアン核廃棄場計画を白紙撤回せよ!


反核国際フォーラム報告 
安楽知子(名古屋・きのこの会)、三浦翠(原発いらん山口ネットワーク)

福澤定岳(六ヶ所村)澤井正子(原子力資料情報室)



反核国際フォーラム
―韓国プアン(扶安)核廃棄場反対闘争―
  

安楽知子(名古屋・きのこの会)

11月25日、仁川空港で待ち合わせた福澤さん、澤井さん、佐藤さんと私は、通訳の鈴木明さんと合流しプアンに向かう(日本からの他の参加者4名は釜山からプアンへ)。西海岸高速道路を車で飛ばし約3時間。午後4時ごろやっとプアンに到着した。プアンの街中に入ると、すぐに人々の活気が伝わってきた。パソコンショップや銀行、本屋などが立ち並ぶ商店街には、買い物客や下校途中の中高生などが往来し、人口約7万人の小都市は想像していた以上に賑やかだ。

街の活気をさらに盛り上げて見せているのは、店々のショーウインドウ等に飾られた反核シンボルマーク入りの黄色い旗である。放射能マークと通行禁止マークを重ねたマーク。あるいは国旗と放射能マークを重ねたマーク。9月の郡守負傷事件の後、警察が公共の場所の旗を撤去する前はもっとたくさんの看板や旗が町中を飾っていたとのこと。

◆ 台湾の報告

 「反核国際フォーラム」(核廃棄物処分場フォーラム)は午後3時から始まっている。私たちが会場の教会に着いたのは、ちょうど台湾のプレゼンテーションが始まったところだった。

韓国政府は、11月2〜4日、国際フォーラムを開き、スウェーデン、フランス、日本からは土田元六ヶ所村長が参加、「核廃棄物処分場の安全性」が強調された。
反核国民行動が主催したこの反核国際フォーラムはそれに対抗するものでもある。

台湾環境保護連盟のフェンラン・ライさんが、簡単に台湾の原子力状況を述べた後、中低レベル放射性廃棄物の貯蔵施設があるランユ島を紹介。魚の缶詰工場を造ると言ってだまして核廃棄物貯蔵施設を造ったという話は、すでにNNAFのニュースでも何度か取り上げられているが、改めてスライドで現場の様子を見せられると、あまりに粗末な施設で杜撰な管理をされているのに驚く。海からほんのわずかの距離に施設が建っており、作業員は上半身裸に近いようなかっこうで中低レベルのドラム缶を置く作業をしているのを見た。続いてランユ島出身のリュー・シャさんが、現在の現地の状況などを説明。小柄で華奢に見えた彼女も話を始めるととても雄弁だ。

この日のプレゼンテーションは、教会の聖堂の中で行われた。ここで急遽行われることになった訳は、当初予定していた公共施設が、今までに何回かあった警察との衝突の際に焼けてしまったからだそうだ。

◆ 教会

教会の敷地内には聖堂とは別の建物があり、個室や厨房、100人ぐらいが入れる食堂兼講堂になっている。夕食はその大食堂で取った。この教会は、かつて女子大生イム・スギョンさんとともに38度線を越え獄に入ったムン・ギュヒョン神父がいる教会なのだ。プアンの処分場問題が起きてから、この神父さんは運動の中心的役割を果たしている。当然警察にも目を付けられているが、教会の敷地には警察は踏み込んで来ることができないため、ここは活動家のシェルターにもなっている。運動を主導した人たちが多数、警察に拘束されたり、指名手配されている。

◆ キャンドル集会

夕飯を終え、オンドルで暖まっていると、7時ごろから教会の庭に人が集まり始めた。
プアンでは、7月の郡守の誘致表明以来、街のメインストリートにある水産協同組合ビル前の路上を「反核民主広場」と名付け毎晩2〜3000人のキャンドル集会(1〜2万人規模の集会やデモも10回以上)を開いてきた。

11月18日に住民投票の実施時期を巡って政府との話合いが決裂(住民側は白紙撤回を求めていたが、妥協案の「住民投票実施」を3泊4日の大議論の末、受け入れた。ところが政府は住民投票を来年6〜7月に実施するという。住民側は年内実施を求めている)。

翌19日、郡民大決起集会を開催しようとした住民と戦闘警察との間で小競り合いがあり、反核民主広場は警察によって封鎖された。やむなく場所を教会敷地内に移して行うようになってから4日目。集会自体としては123日目で、すでに1年の3分の1やっていることになる。本当にすごいことである。

庭にはステージが作られ、脇には建物の軒下を利用して大きなスクリーンが張られている。壇上の机に20人程の男の人たちが座って記者会見を行っている。この日、「全国民衆連帯」に参加する団体の会合が全羅北道で行われ、そこでプアンの住民たちと連帯して闘うことが決議されたとの報告である。続いて、韓国民主労総、全国農民会総連盟、全国貧民連合、全国連合の各議長、韓国民主労働党の副議長など様々な団体の代表が次々と力強い挨拶と演説をした。

また、車イスに乗って登壇したのは、警察によって暴行を受け負傷した住民だった。この4カ月間で約500人の住民が戦闘警察の暴力で負傷している。しかも、マスコミがそのことを歪曲して伝えていることから、この日、負傷した人々ら約70人がソウルの青瓦台や警察庁を訪れ、プアンの暴力統治を止め、マスコミに真実を伝えるように訴えてきたのだ。

環境保護団体だけでなく、労働団体、農民団体など、はば広い層の人たちが連帯を表明し、ノ・ムヒョン政権の手法と責任に対する激しい糾弾の言葉を口にしていた。軍政から「民主」政権に変わってまだ数年。政治意識の強さは日本とは比べ物にならない。聴衆も演説に賛同の声や拍手を送っている。

集会に参加する人もどんどん増え、夜も8時過ぎる頃には、黄色いジャンパーや帽子を身につけ、キャンドルに火をともしながら集う人々は1000人近くになっていた。

プロジェクタ−を使って、この4カ月のプアンの出来事を追ったビデオの上映もあった。警察が盾で住民を打ちのめしている映像は凄惨で、目をそむけたくなるほど。しかし、このダイジェストビデオは、非常に簡潔にプアンの4カ月をまとめている。こうしたものを反対運動として作れる力量というのにも感心した。

集会の終盤には、上関原発の反対運動にとりくむ山本由紀子さんが、あらかじめ用意してきた連帯の挨拶を韓国語で読み上げた。会場からは、山本さんの呼び掛けに呼応して喚声が上がり、まるでライブステージのスターのよう。最後に、壇上にあがった国際フォーラム参加者全員が、にわか仕込みの韓国語で「世界市民、連帯して原発と核廃棄物処分場に決死反対しよう!」と唱和し、満場の拍手をいただいた。

◆ キャンドルデモと戦闘警察
 
集会参加者は、午後9時を回った頃、水協前「反核民主広場」までのデモ行進に出発した。全国民衆連帯の代表たちと私たち外国人は、暴力を受ける可能性が少ないことから、前面に出され、「人間の盾」に。

人の多さで細い道はいっぱい。ゾロゾロとまるで初詣の行列のように歩く。戦闘警察の最初の阻止線は突破したが、大通りに入る所で夥しい数の戦闘警察の隊列が盾をもって隙間なく道をブロックしている。行く手を阻まれたデモ隊は、後戻りも出来ず、後ろから来る人たちに押されて、おしくら饅頭状態に。その最前列に私たちもいて、ヘルメットを被った屈強なお兄さんたちとのにらみあいが続いた。

フランスから参加したジャンさんが、「インターナショナル・ソリダリテ」と謳うように繰り返し叫んでも、戦闘警察は無表情に突っ立って動かない。住民たちは、なぜ通さないのかと怒り始めたが、この日はマスコミが何社もカメラを向けていたことから、戦闘警察もそう手荒な真似はしなかった。そのうちデモ隊を仕切る人が出て演説を始める。駐車してあるトラックの荷台に乗っていた福澤定岳さんもマイクを渡され、六ヶ所村から来た想いを訴え、多大な拍手を浴びた。

結局、夜10時頃、「今日はここまで。明日は民主広場をとりもどそう」と、解散した。

私たちは、水協前でハンガーストライキをやっているムン・ギュヒョン神父の所に挨拶に行くことにした。歩道にテントが組まれ、シンボルカラーの黄色の横断幕にハンスト13日目であることが分かるように書いてある。テントの前には数十人の住民たちが、神父に同伴して自主的に座り込みをしていた。時刻は10時を回っているし、この夜は大変寒くて、手足が震えるぐらいの気温だったのに。一方、住民達の数十センチ先の車道には、その何倍もの人数の戦闘警察もズラーっと並んで立っていた。

 私たちは、神父に激励のあいさつをし握手した。韓国では大変尊敬されている有名人だと言うので、もう少し年輩の長老をイメージしていたのだが、会ってみるとまだ50代の男前の神父さんだった。

◆ 屋台で出会ったおじさん
 
そのあと、宿泊先のホテルに歩いて行きチェックイン。ホテルの窓から下を見ると、人気のない通りに戦闘警察の黒い隊列だけがそこここのブロックに待機していて異様な雰囲気。こんな遅くまで仕事をしている警察もご苦労なことだが、これだけの人員配備にかかる費用も気になる。人口7万人のプアンに約8000人の戦闘警察が常駐している(住んでいる)と聞く。

それから屋台に繰り出すことになった。歩いて10分ぐらいの所にテント張りの屋台があった。時刻は11時を過ぎていたが、ちらほらと客が入っている。プアンは海も近く、新鮮な魚介類が入ってくるらしい。テーブル中央の練炭に火を入れてもらい、ワカメのスープと地元で採れた魚やイカや貝をいただくことにした。はまぐりの刺身というのもあって、にんにく片とコチュジャンをトッピングして食べると、なかなかオツな味である。

プアンの近くには、諫早湾のように、国内の大きな環境問題となっているセマングムの干潟の干拓事業がある。魚や貝はそこで採れたものだという。この工事はほとんど終わっていて、そのために漁獲高はかなり落ち込んでいるらしい。

14km沖合いのウィ島は、霊光原発からも20km位しか離れていない。霊光の温排水でもウィ島の漁業は打撃を受け、さらにセマングム干拓事業で魚が捕れなくなった。ウィ島の漁民たちが処分場を受け入れる代わりに現金補償を求めているのには、そうした背景もあるようだ。

隣の席にたまたま座っていた二人連れのおじさんの内の一人が、プアンのことを色々と説明してくれた。彼は民主広場のステージの設営をボランティアでやっているとのこと。実際には見ていないが、ビデオや写真で見たステージは、かなり本格的に組まれたものである。しかし、集会を開催させまいとする警察によって2回も解体撤去させられて、現在あるステージは3基目だそうだ。

プアンの反対運動は、誰かがああやれこうやれという指示をすることもなく、気づいた人が自主的に色々な役割を分担し、多彩な才能を発揮していることが誇らしい、とおじさんは言う。たとえばキャンドル集会の時には、防寒のために銀色のマットが地面に敷かれるが、それも誰彼となく、自然にやってくれる人が出てきたのだそうだ。

また、このおじさんは、プアンの子供たちが同盟休校をしている間の自主学校の世話もしていたという。40日間も続いた子供たちの自主的な休校を、大人たちはしばらく暖かい目で見守っていたのだが、あまり長く学校を休むのはよくないので、一度大人がこれを終わりにしようとしたら、子供たちに猛反発されたそうである。「どうして私たちの意思を聞かないのか」と。

おじさんは、「4カ月前は、原発や核廃棄物のことなどほとんど知らなかった。でも、いまプアンの人たちは、ちょっとした原子力博士だ。私たちは、プアンに核廃棄物が来ないことを望むだけではなく、この問題はもうプアンで最後にしたい」と語っていた。なんだか私は胸が熱くなった。



◆ 26日 国際フォーラム

朝8時集合。近くの定食屋さんで朝食。お店にあったテレビのニュース番組で、プアン問題が取り上げられている。何気なく食事をしながら見ていたら、突然、男のキャスターが立ち上がって、背広のボタンを外し互い違いにかけ直した。どうやら「ボタンの掛け違い」を言っていたらしい。日本と同じだ。

10時から日本のプレゼンテーションが始まる。会場は、教会敷地内のあたたかい大食堂。最初に、原子力資料情報室の澤井さんが、プロジェクターを使って六ヶ所村の低レベル放射性廃棄物貯蔵施設の立地場所や構造などを説明する。原発サイトに長年保管されていた中低レベルのドラム缶がどういう状態なのかという具体例を示し、極めつけは東海村の動燃の貯蔵施設内の状況を写した写真。続いて、六ヶ所村の福澤さんが、スライドを使って地元の風景やかつての反対運動の様子を見せ、今沈黙している住民も、けして原子力施設を歓迎しているわけではないことを強調した。私も、岐阜県東濃の超深地層研究所の問題を報告した。

午後からは、フランスのジャンさん。フランスが原子力大国である理由は、核兵器開発と密接に結びついているためであると述べ、全体の核政策から核廃棄物政策の現状や危険性について説明。中でもやはり反対運動の話には熱が入る。フランスのラ・アーグ再処理工場からドイツのゴアレーベンの中間貯蔵施設への放射性廃棄物の鉄道輸送に対して、フランスの人たちがどういうふうに非暴力直接行動を行ったかを写真を交え解説。線路に二人ずつ手を縛り付けて寝転がる時の手の縛り方を図までつけて示してくれた。

次はドイツの物理学者オダ・ベッカーさん。この頃になると、参加者もだんだん疲れてくる。オンドルは暖かいが眠気もさそう。しかし、現地の参加者は、席を立つ者はほとんどいない。ベッカーさんは、韓国の推進側がプルトニウムを食べても安全だと言っていることに反論し、その危険性と核廃棄物に安全な処分方法がないことを強調。ドイツの核廃棄物処分政策の現状やその具体的な施設の構造や保管状況なども説明し、地下に埋めていた廃棄物貯蔵施設の天井が崩れ落ちてきた事故の例などの話をした。

同じくドイツの活動家ジュリア・ベンセンさんによる報告。ドイツの反核運動の歴史、特にゴアレーベンの再処理工場と処分場反対運動について述べた後、原発の使用済み燃料をゴアレーベン中間貯蔵施設へ運ぶ時のTagXと呼ばれる輸送反対運動の詳細について説明した。ドイツの反対運動も規模がすごい。これは、後で見たビデオでも実感した。

会場には、制服を着た高校3年生の女の子の姿もあった。学校の先生にこのフォーラムに行きたいと言ったら、快く許可がもらえたと話していた。かわいらしい利発そうな女の子である。

◆ 連行?

夕食後、翌日のソウルでの記者会見用に共同宣言を作るというので、別室にあつまり、日本からは澤井さんと私がその起草会議に参加。それが終わると、みなで反核民主広場に行くことに。通りは、夜なのに人がけっこうたくさん出ている。が、それよりも、戦闘警察の塊がそこここに居て、道行く住民を威嚇したり、通せんぼをしている。

私たちは普通に歩道を歩いていた。すると突然、警察の壁にぶつかり行く手を遮られた。前日の集会で、「明日は反核民主広場をとりもどそう」という呼びかけがあったので、集会をさせないために警察が街のあちこちで通行をブロックしているのだ。なぜ通さないのだ、どこへ行こうと自由ではないか、と押し問答している内に、いきなり通訳の鈴木さんが引っぱられ、脇に止めてあった警察のワゴン車の中に持って行かれた。「へ?」と思っている内に私も周りを盾にブロックされて逃げられず、押されて車の中へ。そうこうする内に今度はジュリアさんも引っぱられて乗ってきた。歩道では相変わらず仲間が押し問答している。フランスのジャンさんは、黄色いスカーフを付けていただけでクレームを付けられたと言っていた。住民がシンボルカラーの黄色を身につけていることについて、推進側は「イエロー・シンドローム」と呼んでいるらしい。

私は、外国人だし、おとなしくしていればすぐに釈放されるだろうと腹をくくる反面、会社の上司の顔を思い浮かべながら、「金曜日にはちゃんと朝出勤できますように。でないとクビかも」という心配も頭をよぎる。

車が発車しないように、KFEM(環境運動連合)の若いスタッフが体を車の下にもぐり込ませて抵抗しているのが見えた。警察がそれを引きずり出そうとしてもみ合っている。テレビ局のカメラが回っているので、酷い暴力は加えない。が、彼がスライドドアのレールに指をかけているのに、ドアを閉めようとするので、思わず私は「なんでそんなことするの、やめてよ〜」と半ベソかきながら日本語で叫んだ。私たちのために若者が指切断なんてことになったらたまらないではないか。KFEMスタッフのヤン・ウオンニョンさんらがドアをガシッと押さえて止め、指は大丈夫だったが、またキム・ボンニョさん、山本さんが車に乗せられてきた。そこでいったんドアが閉められる。しかし問答している内に、再びヤンさんによってドアが開けられた。出よ出よと言うので、まず一番手前に乗っていた山本さんが脱出し、それに続いて中にいる人も次々を車を出る。警察は、言葉の分からない外国人を捕らえてもやっかいなだけなので、強くそれを阻止することはなかった。

◆ 病院前

目的地にはたどり着けないのだが、連行されそうになった外国人としてテレビのインタビューを受けたりしながら、歩いていたら大きな病院の前にたどり着いた。ここは、警察の暴力で負傷させられた人たちが入院している所らしい。

すでに何人かがそこにたむろしロウソクをともしている。その内に、一人のおじさんが演説を始めた。ロウソクを持った人も集まり出した。警察の塊は遠巻きにこちらを見ている。ついにミニ集会が始まり、演説やら歌やらで盛り上がってきた。夜10時近いのに病院の前でこんなに騒いでよいのだろうかと想ったが、中の人も廊下に出てきて見守っているのが見えた。警察に負傷させられて入院していた患者も中から下りてきてスピーチ。ふと見ると、昨日の屋台のおじさんもここに来ている。全羅北道の議員や、ウィ島でたった一人で反対を始めた人もいる。

山本さんがぜひ唄を歌いたいと申し出、韓国の闘争歌をみんなで歌い、集会は10時半ごろ解散。この日は、こうした集会が所々で行われたらしい。

それから、トラックの荷台に乗って教会まで帰り、まだ一度もやっていなかった交流会をやりましょうということになった。時刻は既に11時。韓国のスタッフはタフなのだ。でも交流会はやってよかった。地元プアンの人たちと改めて顔を合わせることができたからである。対策委員会の執行部は農民会の人が多い、指名手配中の人もいた。プアンでお茶屋さんをしている人は、おみやげに山深い野で採れるハーブティーをみんなにプレゼントしてくれた。一通り自己紹介をしている内に、1時近くになり、お開きとなる。長い1日だった。

◆ 11月27日 記者会見

朝7時半頃集合。貸し切りバスに全員乗り込み、一路ソウルへ。車中、連行されそうになったことに対する抗議声明を出そうという話になった。私たちは助かったが、プアン住民への警察の弾圧に対して少しでも何かして帰りたいという気持ちからである。

お昼頃、記者会見会場の韓国環境運動連合の事務所に到着。会見までのしばらく、この事務所を見学することになる。明るくお洒落な建物の1階はエコロジーショップで、2、3階が運動団体の事務所になっている。窓からは青瓦台も見え、働いているのも2〜30代のスタッフだ。発行物もカラー刷りの立派なものばかり。反原発をこれだけ強く打ち出してこれだけの資金が集められることに、韓国はすごいなと感心してしまう。

1時から事務所の中庭で記者会見。フォーラムでのスピーチの内容を各国だいたい一人ずつ説明し、記者の質問に答え、最後に共同声明と車中で作った政府への抗議文を読み上げた。ぜんぶ終わった頃には3時近くになっていた。その後は、一緒に遅いお昼ご飯を食べ、福澤さんと私は一足先に空港へ。アッという間の3日間がこうして終わった。

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(OCN翻訳サービスhttp://www.ocn.ne.jp/translation/?U を利用⇒)
・チャムソリ(真の声)http://www.cham-sori.net (プアンの人たちの写真やビデオ映像多数)
・全プアン郡民対策委員会 http://nonukebuan.or.kr/
・環境運動連合 http://www.kfem.or.kr/
または、ハンギョレ新聞(日本語) http://korea.hanmir.com/ktj.cgi?url=www.hani.co.kr
報道姿勢に問題がある「朝鮮日報」(日本語)http://japanese.chosun.com/

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すばらしいプアンの人々

三浦翠(原発いらん山口ネットワーク

11月25日朝、「原発いらん下関の会」の沢村和世さん、大阪の水戸喜世子さん、「原発いらん山口ネットワーク」の山本由紀子さんと私は、通訳であり共通の友人でもあるキム・ボンニョさんとともに彼女の車で、釜山からプアンへ向かった。

プアンの街に入ると、商店のウィンドゥにも仕事中のトラックにも「核のない世界を」とハングルで書いた黄色いステッカーが貼られ、通りには黄色い横断幕もかかっている。

夜、教会の庭で集会。紙コップに下からロウソクを差し込み火をともす。人の数だけの黄色いキャンドルがゆらめいて美しい。1000人ぐらいだろうか、もっとだろうか。 

4か月間プアンの人たちだけで反対運動を続けてきたが、この日は労働組合、農民会、その他さまざまな全国組織の代表が参加し、支持を表明。「孤立感」から解放される日となった。

私たち「反核国際フォーラム」に参加した外国人たちも壇上にあがる。山本さんが練習してきた韓国語で「プアングンミンヨロブン」とよびかけ、連帯を表明し、「ヘッペキジャン、キョルサパンデ(核廃棄場、決死反対)」とこぶしを振り上げると「イェーッ!」と割れるような歓声が上がり、まるでロックシンガーのような「受け」だった。

このおかげか私たちはプアン滞在中ずっと暖かく受け入れられた。翌朝、宿から教会に向かうときも市場を通ると何人もの人が笑いながら近寄ってきて山本さんに握手を求めた。ほんとうにすごいことだと思った。厚い厚い日韓の心の壁をこえたのだから。

26日夜、反核民主広場は機動隊に封鎖されてしまい、市内の数カ所でロウソク集会。私たちは連行されそうになった後、病院の前へ。あちこちから歩いてきた人がどんどん合流し、互いにロウソクに点灯しあい、大きな輪になる。病室から出てきた女の人がパジャマ姿のままハンドマイクを握る。機動隊に殴られてけがをし入院中という。そういう人が一人ではなかった。司会をしていた男性も今夜初めてハンドマイクを持ったのだという。もう、だれもかれもが主役なのだ。

夜もふけて、一人のおじさんが反核民主広場のそばにある「聖地」につれていってくれた。そこには「反核大将軍」と書いた巨大なトーテムポールが2本と、間に太陽と雲をのせたポールが立っていた。「核のない世界をつくるためのシンボルとしての聖地と決めた」という。私たちは手を合わせて祈った。
最後に彼は胸に手をあてながら「今回初めて日本人の心を感じた」と言った。胸にしみることばだった。


一つの希望

福澤定岳(六ヶ所村)

ここ2、3年、韓国からの視察や、韓国のマスコミの取材などの随行で時々六ヶ所に来る通訳のキム・ボンニョさんから電話で聞きながらも、いまひとつプアンのことはピンとこなかったのですが、今回フォーラムがあるとのことで誘いを受けて行って来ました。

行く数日前、「それまで住民の集会を黙認していた韓国政府が、これ以上運動が拡がることを怖れて6千人とも8千人とも言われる機動隊(戦闘警察)を常駐させており、暴力的弾圧が始まり、逮捕者、けが人が続出」との知らせもあり、けっこうビビッておったのであります。

26日夜「反核民主広場」とよばれている交差点で予定しているキャンドル集会に行こうと歩道を歩いていたら、あちこちで、日本では、まず見たことのない、数えきれない数の固まりの機動隊が道路封鎖。いたる所の交差点や路地で楯を持った機動隊のディフェンスライン(ラインじゃないですね、固まりでドーンとあちこちに張り付いて動かない)であたかもマジで戒厳令下のよう。

それなのに、人々はまるで気軽に夜の散歩でもするかのように、次々とあちこちの家からロウソクを持ったり、黄色いシンボルカラーのジャンパーや帽子やスカーフを身につけたり、あるいは全くの普段着のまま出て来る。本当に一般のお家から一般の人が出て来るの。

ボクたちも20人ほどで歩いていると、機動隊の一団にたちまち取り囲まれ、押し問答しているうちに、急に有無を言わせず目の前のお仲間の7人が「パクられ」て(安楽さん他ドイツ・フランス・日本・韓国のインターナショナルの顔ぶれ)、ボクも両手首をガッキと握られて、次の次に護送車(10人乗りぐらいのワゴン車)に乗せられるところ満員御礼でいったんスライドドアが閉められる。

グズグズもみ合っているうちに、主催者の韓国の方々の果敢な奪還行動(ナント、一人は自ら車の下に体を潜り込ませて車が立ち往生して動けなくなった)と、急に風向きが変わった(別の方での応援の指令が急に入ったらしい)のとで、意外にもあっさりと車から飛び出して無事だったのですが、一時はヒヤリとしました(「エーッ!ヤダーッ! なに、これーっ! 帰れなくなっちゃうのー? ヒコーキの切符どーすんのヨーッ! 買って返してくれんだろーか?」、一瞬のうちにいろいろな思いがいつもはトロイ頭を駆けめぐり、一時はマジでアセってしまった)。

でも、あとで聞くと、あせったのは、護送車の中で待機していた警察の方のようで、言葉のわからない外国人をつかまえてどーしようと焦っていたらしい。

いったん車から出たあと、みんなで相談し、外国人がつかまったら問題が大きくなる。つかまってもかまわないということになり、歩いているうちに、病院の前の広場での小さな集まりに遭遇。

8000人規模の機動隊が、民主広場での集会を阻止するために、この日はプアンの街のあちこちで住民を分散させる作戦を採ったらしい。 

そんな中で、はじめ50人ぐらいのパラパラとした集まりのところで、一人のオジサンがこぶしを振り上げながらアジ演説。ロウソクを手にしていたボクたちもそこに合流。ロウソクに灯をつけて聞き入っていると、だんだん人が集まり、どこからか誰かがロウソクを配り一人、また一人と灯をつないでいく…。

やがて気がつくと、ロウソクの灯を持った一人ひとりの大きな人の輪が出来ていて、警察の暴行を受けて入院している人が目の前の病院から出て来て訴えたり、反核運動歌で盛りあがったりと…。まるで映画の一場面の中にいるような、とてもとても心に響く集まりとなりました。そんな集まりが、その夜は警察に封鎖された街のあちこちで行われていると、携帯を持って話していた韓国の人が片言英語で教えてくれました。

ホントはヒコーキがこわくて臆病なボクは、そんな危険なコトしてそんなこわいとこなんか行きたくないと秘かに思っていたのですが、実際に行ってみたら、プアンの人たちの勇気と決してあきらめない不屈の闘志とパワーに、いたく感じ入ってしまいました。プアンでは、本当に一般の人たちの「民衆の抵抗運動」という様相です。

ずーっと、グズグズ、ウジウジ、悶々と六ヶ所で悶えていたボクにとっては、とてもとてもショック(もちろん良い意味で)でした。初めて、自由を渇望する底知れない大衆のエネルギーを見た気がしました。心の底からうらやましく感じたと言っては悲惨な状況のプアンの人たちにはとても失礼ですが、人間の尊厳と生き生きとしたナマの表情に接して、思わず胸の底が熱くなってしまいました。

もしかしたら、各地の反原発の方々はじめ、動機、息切れ、更年期他、さまざまな金太郎アメ的諸症状を訴えておられる組織の沈滞打破、疲労回復の決定打の有効な処方箋の一つは、プアンの人たちとの現地交流、共同行動なのではと、おこがましくもフと思うのでありました(な〜んて、海外旅行から帰ったばかりのよくある熱病の一つかも知れませんが、いまはそんな印象に浸っておるのであります)。

「核廃棄物処分場反対は地域住民のエゴだ」的よくあるキャンペーンで、プアンの人たちは孤立感を深めていたのだとか。(いつでも、どこでも、あたかも核のゴミの問題は押しつけられる地元の人の問題のように迫られるのですが、本当は初めから後始末のメドもなく行け行けドンドンで突っ走って来て、いまなお推進をあきらめない電力会社と「国」という隠れ蓑の裏でうごめく政治家と役人と取り巻きの問題でねーの!)。

少しでもプアンの人たちの心を軽くしてあげられたらいいのだけれど…。

プアンにはステキな人がいっぱい!(まるで一人ひとりが映画のキャラクター以上の濃い印象の人ばかり。あの人たちで映画を撮ったら「七人の侍」レベルのすごいのが出来ると思う。もちろん女性もステキ)。

誰しも、自分の手の届くところで動くしかないのですが…。希望を見たいと切に思いました。プアンでのキャンドルデモは確かにその一つの希望でした。


ロウソク集会127日目、再び反核民主広場で開催
          
澤井正子(原子力資料情報室)

「反核国際ファーラム」終了後の11月29日早朝、ドイツのゲスト、オダ・ベッカーさん、ジュリアさんと私は、通訳の金福女さんの運転する車でソウルから再びプアンに向かった。

教会に到着後、集会での挨拶の打ち合わせなどをしていると、広間では集会に備え黄色い「nonuke buan」の紙コップにロウソクをさす作業が始まっていた。早速私たちもお手伝いを開始。いくら紙コップにロウソクをさしても、後から後から紙コップとロウソクが出てくる。大人から子供まで数十人が取り組んだ。途中で日本語で話しかけてくれる大学生、外国人のヘルプを取材するマスコミ、緊張した雰囲気だが、和気あいあいと作業は進んだ。集会での挨拶があるので私たちは、お先に失礼した(15000人分? ウーン大変!)

ロウソク集会127日目は再び反核民主広場に戻ってきた。プアンの人々が、断食テント前のあの場所にもうビッシリ座っている。私たちも前方に座らせてもらう。大きな舞台、立派なPA、集会が始まると、ものすごい音。それでも1番後ろまで音は届かなかったんじゃないかしら。集会の途中で2度ほどみんなで”ウエーブ”をやったけれど、後ろからの波が来るまで相当な時間がかかったもの。集会は3時から7時までナント4時間。ところが全然あきない。勿論たくさんの挨拶や連帯表明があったけれど、その間には、何度も歌、バンド演奏、パフォーマンスがあり、参加者全員で体をほぐす軽いゲーム(手を叩いたり、お隣の肩を叩いたり)と盛りだくさん。

残念ながら韓国語が全然分からないので、集会でのプアン対策委員会代表やムン・ギュヒョン神父のすばらしい挨拶の詳細をご紹介出来ない。でも「ヘッペキジャン、マガネセ!」はわかった。オダ・ベッカーさんと私は、それぞれ連帯の挨拶後、「ヘッペキジャン、マガネセ!」を大きな声でアピールしました。

夕闇が迫ると、キャンドルが配られた。その中で高校生が詩を朗読した。「たとえ警察がキャンドルの火を消しても、私たちの心の中の炎を消すことはできない」。

プアン郡民の勝利を確信します。



ノーニュークス・アジアフォーラム通信 No.65もくじ (03年12月20日発行)B5版48ページ   

●反核国際フォーラム ー韓国プアン核廃棄場反対闘争−
(安楽知子、三浦翠、福沢定岳、澤井正子)
●反核国際フォーラム共同声明、ノ・ムヒョン大統領への抗議文、韓国民衆連帯声明文、ほか         ●韓国の核廃棄場問題とプアン闘争
 (核廃棄場白紙化・核発電所追放・全プアン郡民対策委員会)
●台湾を訪ねて (菅井益郎)                    
●「非核家園」理念実現の仕組と憲法課題 (李建良)           
●台湾「非核家園推動(脱原発社会推進)法案」             
●インドネシアで再び蠢く原子力ロビー (安部竜一郎)
●インド政府が進める新たなウラン鉱山開発計画(D・ナラシムハ・レディ)
●国際会議「先住民と核の連鎖」報告(井上年弘)
●国際平和巡礼 (野川温子)                                            

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