むかしむかしをふりかえって --成長なんてするもんか とーち(奥田亮)

むかしむかしをふりかえって

感動を書くことが減っているのはすでに書いているからだ
NNAFが始まってから22年。私が反原発に関わってから24年。しかしそれらを通じて私自身はほとんど成長してないというか、実に変わっていない。今回、昔私が書いた文章を読み返していて、そう思った。
最近は情報を書くことはあるが、感動を書くことがすっかり減ってしまった。
歳をとったからだ、とは思わない。すでに書いたからだ、と思いたい。
そこで今回はこれまで書いたWeb上で読み返していただける文章を紹介させていただきたい。
本文章は下記でも公開しているので、パソコンや携帯のブラウザで見ていただけると、リンク先を読んでいただくのに便利です。
http://www.NoNukesAsiaForum.org/toach/24.html
※今、読んでいただいているのはWeb版なので、上記の内容です。

関西電力前テント村
1991年2月9日、福井県美浜原発で、蒸気発生器の配管が破断し、緊急炉心冷却装置が日本で始めて作動する大きな事故が起きた。
緊急炉心冷却装置は原発の最後の砦で、こんなものは過剰な設備だ、という人もいたくらい。大惨事となる一歩手前だった。
当時、この事故の原因は判明していなかったため、直ちにすべての同型原発を止めて点検することを多くの人びとが求めて、関西電力に説明会を開かせた。
私もどう考えても、それは当然の措置だと思ったので、これに参加した。しかし関西電力は一基も止めることなく運転を続けると強弁するばかりだった。
これに納得せず、関西電力前に座り込み、その延長で、テントを張って住み込んでしまう人々がいた。
「関西電力前テント村」の誕生だ。
私も時折だが、これに参加し、パソコン通信で伝えたのが私の反原発運動の始まりだった。
これに先立つ1990年に、ローカルなパソコン通信「れんこんネット」から発展した季刊「放射性れんこん」というミニコミ誌が発刊された。そこにときどき寄稿させていただいたのだが、テント村についてもVol3に収録されている。
・放射性れんこん Vol.3 美浜事故は終わらない とーち
   http://www.rencon.net/houren/v03.html#TOOCHI
たぶん原稿という形で書いたはじめての文章だと思うが、この文章に私の原発に関する考え方の原点がすべて詰まっている。
「教訓をくみ取ることができなければ、再び同じ事故を起こすことになるでしょう。そして、そのときにも今回のように奇跡的に綱渡りが成功するとは限らないのです。」この感覚が「この日」という歌になった。
「多くの人々から指摘されてきたことが、その通りに起こってしまった事故」この思いは3.11へと繋がっていきます。
この後のMcOttoさんの記事には、テント村が排除されたあとの私の書き込みも引用されています。
・放射性れんこん Vol.5 終わったけど.......終わらない!
   http://www.rencon.net/houren/v05.html
この記事では、テント村のその後について綴っています。ちなみに、ここで「8月7日には、韓國の反原発資料情報室の方がテント村を訪ねてこられました」と記していますが、この方が後にNNAF創設を呼びかけた金源植さんでした。

南島町
南島町(現 南伊勢町)の原発計画は1963年に始まっています。しかし当初から現地の人々の強い反対が親、子、孫へと受け継がれていき、実に計画から37年を経た2000年に、ようやく知事の白紙表明により事実上の中止が勝ち取られました。
私は1992年から南島町を訪れ始めました。
・ウラシマ・プロ(「芦浜」海からの伝言)
   http://ashihama.org/
これはZIPPさん、しょうこさんのテキスト・写真の提供を受けて作ったWebページです。20年近く更新していないにも関わらず、今もよく閲覧されていて、今年芦浜キャンプで出会ったグループもこのページを見たといっていました。
・とーちのページ 南島町に学ぶ
   http://www.toach.org/nlog.htm
1992年2月から1994年2月までのパソコン通信にアップした内容などを再構成した文章。
ここで引用している文章「『だめなものはだめなのだ』。”日本のため”ではなく南島のためで十分だ。頼りになるのは自分自身しかいない。政治家も役人も学者も、同じ漁民でも、結局誰も助けてくれない。自分の道は自分で進む以外ないことだ。日本の政治も経済も、戦後三十数年間、弱いもの貧しいものを犠牲にして、成長を続けてきたことが最近はっきりしてきた。東京から遠く離れた僻遠の地と、そこに住む農民漁民は真っ先に切り捨てられた。」
は私がずっとバイブルとしてきた言葉だ。そう思うとなんとこの国は「変わらない世界」なのかと思う。
・とーちのページ 南島町情報
   http://www.toach.org/nantou.htm
こちらは1995年10月から1996年6月までをまとめたもの。このころ私は1995年に起きた阪神淡路大震災の後で、公的援助法の活動に加わっており、南島町にあまり行けなかったので他の方のメッセージが主になっている。

ノーニュークス・アジアフォーラム 第一回 日本
    http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/japan/index.htm
このときは記録集が作成され、その内容はほぼすべて上記Web上に収録した。
・誰も経験してない試みの連続アジアの都市大阪は燃えた
   http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/japan/osaka07.htm
私の原稿はこれだけだが、この中で登場するスライドが下記である。
・関西集会記念スライドレビュー
   http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/slide/
また、このときのアジアフォーラムでは海外参加者が7コースに分かれて現地を訪問した。
私はこの後、何度も会うことになるコラソンさんらが訪れている南島町の集会に合流した。
・Cコース 静岡、芦浜、和歌山
   http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/japan/other03.htm

環太平洋「反」原子力会議
     http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/pbnc/
「環太平洋原子力会議」という名称の会議が1996年10月に神戸で開かれると聞いて、ほぼ逆上した。
地震の被害が、それも高速道路が倒壊するなど「あり得ない」はずの被害が癒えもしていない状態で、原発輸出を推進しようとする会議を開くというのだ。
短い準備期間の中、韓国・インドネシア・米国からのゲストを迎えて(台湾からも参加予定だったが直前に第四原発をめぐる情勢が緊迫し来日できなかった)プチアジアフォーラムと呼べるほどの内容が、すばらしい参加者により実現された。
・オープニング 始めよう未来へ希望をつなぐため
   http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/pbnc/open/open.html
とくに米国からこられたクレア・グリーンスフェルダーさんの「ここへ来た一人のアメリカ人として、広島、長崎へ落とされた原子爆弾について心からおわびをしたいと思います。同時に、ネイティブ・アメリカンの人たちに対しても、ウラン鉱山や核実験場でさまざまな核に関する被害を与えましたことをアメリカ人として深くおわびをしたいと思います。こういうことから行動が出てくると私は考えています。」という言葉にはびっくりした。こんなことをいう米国人を始めてみた。
・神戸声明(市民による環太平洋反原子力会議声明文)
   http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/pbnc/pbnc20.htm
声明文の草稿を書くなんてはじめてのことだったが、この声明文は書きたかった。
実はあっちこっち、突っ込みどころもあり議論もあった。
「この地は、原発の建設について話をするのにふさわしい場所ではありません。」→原発の建設について話をするのにふさわしい場所なんてどこにもないやん、とか、とか。でも結局、ほぼそのまま通させてもらった。そのおかげで勢いのある文になったと思う。

台湾 第四原発
 ・台湾 塩寮訪問記録
    http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/taiwan9901/
1999年1月、私にとっては初めての台湾訪問の記録である。
台湾第四原発の敷地内に入り錆だらけの工事の様子、破壊された原住民(先住民)の遺跡、原発からの廃材により放射能汚染された住宅、突然のラジオ出演など密度の高い訪問だった。
なかでも漁協周りの様子は「漁港の造りや堤防の築き方、荷積みのためのコンクリートのたたき、スレート葺きの屋根、日本の漁港以上に日本的な気さえしてくる」と書いたように南島町を彷彿とさせたが「漁業権を売り渡すことを拒否している」という事実も南島町を思わせた。

・台湾訪問記録 1999年10月
    http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/taiwan9910/
このときの訪問は佐藤大介氏が事情でいけなくなり、急遽私が行くことになったため単独渡航だった。
そのせいか、より親密な話ができたと思う。特に後半、台湾南部の921大地震が起こった直後だったため、短い日程だったがボランティアに向かったがそこでは、原発とは関係のない台湾の人びとと深く話す時間があった。またなぜか神戸の公的援助法でいっしょに活動していた中島絢子さんにも偶然合って、びっくりした。
ちなみに、最後の記者会見のスピーチの後「塩寮の別荘の持ち主の大学院生は感動しました、といってくれた」のが、後に「こんにちは貢寮」を撮るツイ・スーシンだった。

こうして見てくると、15年以上昔のことばかりなのに、つい最近のような気がしてくる。成長なんてしなくてよかった。つくづくそう思う。