ノーニュークス・アジアフォーラム通信 No.53 より

台湾の核開発の事実

デイビッド・オルブライト、コーレイ・ゲイ  「Bulletin of the Atomic Scientist」 1998年1/2月号より

台湾の政府関係者たちは折に触れて、彼らがかつて核兵器計画を持っていたことを認めてきたが、その詳細を彼らが語ることはめったになかった。その代わりとして彼らは、台湾は「事実上、核拡散の状態」にあり、必要が生じさえすれば短期間のうちに核兵器を製造するこができるという広く流布した認識を享受している。

台湾の核兵器に関する議論は、情勢が緊迫するごとに浮上しては消えていく。1995年7月、中国が台湾近海にミサイルを試射した直後、李登輝総統は国会の場で「我々はこの(核兵器の)問題を長期的な視点から再研究しなければならない」と発言した(1)。彼はさらに、「我々がその計画を持っていたことは周知の事実である」とも付言した。数日後、李登輝はボルテージを幾分下げ、台湾は「核兵器開発能力を持ってはいるが、それを開発することは絶対にありえない」と述べた(2)。

核武装した台湾が核武装した中国と対峙するなどとは、あまりにも恐るべき見通しである。しかし台湾は今日核兵器を保有していないし、その計画があるとも思われない。それは、特に1970年代半ばに、米国と国際原子力機関(IAEA)が台湾に対して強い圧力をかけたためであった。台湾は幸運にも墓穴を掘らずに済んだのだ。
当時アメリカの情報機関は、台湾が核保有国へ転じそうだと考えていた。しかし、米国に先導された厳しい国際査察が行われ、台湾の秘密の核計画の最も重要な部分が断念に追い込まれた。しかし台湾は核への野望を捨て去らず、1980年代後半にはさらなる試みが中断に追い込まれることとなった。本稿と関連したその物語の内容は、これまで明らかにされてはこなかったものだ。

造るべきか、せぬべきか

 なぜ常に台湾政府の中に核兵器を希求する一派がいるのかは、理解するに難しいことではない。台湾はたぶん、最初は核兵器を保有することでもたらされる威信にひきつけられたのだろう。加えて、台湾は海峡をはさんで大陸と向き合っており、ペンタゴンの分析が1980年代初頭に結論付けたように、「台湾が核兵器開発を意図しないという公私にわたる保証にかかわらず、台湾の政府高官たちは、米国による安全保障措置が満足いくものでない場合に、核の力が台湾に独立した抑止力を付与するものになると信じ続けている」。(3)

 しかし、核兵器に対する議論は一筋縄ではいかないものでもある。核保有は台湾と米国の関係を著しく緊張させるだろうし、台湾の原子力計画に対する米国からの支援が停止されるかもしれず、米国からの通常兵器および部品の供給を危機にさらすかもしれない。加えて、大陸は台湾に対して軍事行動で応えてくるかもしれない。

 台湾はこれまで、以前の核計画は言うまでもなく、公式にその意図を表面に出したことはなかった。1980年代後半まで、メディアは厳しく統制されていたし、軍事予算は機密事項で、同様にほとんどの安全保障に関する審議が機密であった。しかし、内部で論議が熾烈を極めていたであろうことは疑う余地がない。

 しかしながら現在明らかなことは、1964年に中国が最初の核実験を行った後に台湾が核兵器計画に着手したということである。

米国の政府関係者の中には、台湾が最初に核爆発物に関心を示したのは1950年代、またはそれ以前にまでさかのぼるとする者もいる。彼らの見解では、台湾が早い時期からIAEAに関与し、「Atoms for Peace(原子力の平和利用)」計画に関心を示したことは、民生用、軍事用両面について設備や重要な訓練を手に入れることを意図してのことであったとされる。

 米国は中国の侵略が起きた場合に台湾を防衛すると誓い、台湾の領域内に米国の核兵器、または核搭載可能な兵器を駐留させていたことすらあった(1974年に撤退)。しかし、1964年10月の中国初の核実験によって、台湾の国家保障の感覚は激しくゆすぶられた。(4)

台北のアメリカ大使館からワシントンに送られた外電は、パニックに近い状態を映し出していた。米大使館高官らとのミーティングで、蒋介石を含めた台湾の幹部たちは中国の核配備に対する軍事行動を強く求め、アジアの反共防衛組織の構築を促し、可能ならば共同の防衛隊の創設が必要であるとした。ある外電では、アメリカの報復が破壊を食い止めるのに間に合わず、一撃で台湾が消し去られてしまうとの恐れを蒋介石が抱いていたことを報じている。

台湾政府は、核実験の政治的な副産物についても案じていた。それは台湾を犠牲にして中国の伸長を後押しするものになると考えられていた。ほかの外電では、外務大臣の沈昌煥が台湾の軍隊の反応や士気について深く懸念していた。

性急な始まり

呉大猷教授、この人物は台北の中央研究院の前院長であり、台湾国家安全会議の科学発展顧問委員会の主任委員であったが、彼が最近になって語ったところによると、中国の核実験と台湾海峡における緊張悪化に応えて、1967年に国防部(国防省)が核兵器開発のために1億4千万ドルの予算を提案した(5)。

蒋介石が新たに任命した科学顧問として、呉大猷は、国防部の提案を検討するよう要請された。彼の手による報告書(1988年に公開)によると、この計画は中山科学院によって作成された(6)。この「新竹(Hsin Chu)計画」は、重水炉、重水生産プラント、プルトニウム抽出プラントの購入を含むものであった。呉大猷によると、中山科学院は弾道ミサイルの開発も望んでいたという。
ドイツ企業であるシーメンスは、上記3つのプラントの設計、建設について、1億2千万ドルの見積もりを台湾に提示していた。ある欧州の核関係者によると、もしシーメンスがこれらのプラントを建設していたら、ドイツは疑いなくそれらの施設をIAEAの保障措置のもとに置くことを要求していただろう。しかしシーメンスは、そのような義務を感じないような国々から請負業者を雇うつもりだったのかもしれない。

呉大猷はこの計画に反対した。彼は蒋介石に対して次のように書き送った。「私は核科学や核技術を得ること、民生用、軍事用双方のために人材を訓練することには何の反対意見もない。しかし中山科学院の計画は非常に欠陥のあるものだと感じる」と。すなわち、この計画は真のコストを低く見積もりすぎていた。この計画に関して多くを学ばなければならないアメリカとの対決を引き起こすという危険を冒すというのに、成功のチャンスを過大評価しすぎていたのだ。今日とは違って、台湾の財政は比較的小規模であったので、その計画は高額であったし、もし弾道ミサイルの開発費用が総額に付け加えられたら、それは高額すぎて手が出せないものであった。(呉大猷はさらに、個人的には核兵器が台湾の国家安全保障上の利益とは逆の作用をするだろうと結論付けていた。彼はその見解を報告書の中では表明しなかったのだが)。

「その後、総統が呉大猷の提言を受け入れてシーメンスとの取引が破棄されたことを、国家安全会議の長が私に伝えてきた」と呉大猷は語る。呉大猷が知る限り、蒋介石が核兵器開発を支持したことはなかった。

呉大猷がさらに助言したのは、核計画は他のほとんどの国でそうであるように、原子力委員会(AEC)の下に置かれるべきだということであった。この提言は受け入れられ、原子力委員会が核エネルギー開発を管轄することになった。しかしながら唐君伯将軍、この人物は核兵器開発を背後から動かす真の駆動力となっていた中山科学院準備委員会主任であったが、彼がAECの常設委員会メンバーとして再任命され、強い軍のプレゼンスがAECにおいて以前と同様に保障される形となった。

唐君伯はその後、核エネルギー研究所(INER)の所長となった。ここは1970年代中期に核兵器計画の焦点となった施設である。あるアメリカの政府関係者によると、将軍はイスラエルが台湾の核のモデルになるべきだと信じていたという。

しかしながら、呉大猷はもっと現実的なアプローチを提言した。これには、保障措置を受けた原子炉の購入が含まれていた。それによって、アメリカから合法的に重水が購入できるようになるからだ。1967年、中山科学院は重水炉を欲していたので、台湾電力が軽水炉購入を計画したとき反対した。

結局、台湾電力は軽水炉を購入し、1969年にINERはカナダから小型の重水研究炉を購入することとなった。

われわれとのインタビューの中で呉大猷が述べたことは、蒋介石総統の息子であり当時国防部にいた蒋経国こそが、父親に知らせないままプルトニウムの抽出を追求したに違いないという確信であった。蒋経国は父の死後、1978年に総統となった。

1988年、呉大猷は自分がその後の進展に対して何の介入もできなかったことが悔やまれると語った。1967年以降、彼は台湾の核計画とはつながりがなくなってしまった。

核エネルギー研究所(INER)

AEC主任の閻振興は1988年に、台北の北西43kmに位置するINERが、最初に核兵器に関する仕事に着手したことを認めた(7)。

アメリカの政府関係者は、INERと同一敷地内にある中山科学院が核兵器計画を受け入れていたと考えている。それが確認されたといえる出来事は、台湾の会計検査院職員が他の政府機関から1990年に中山の帳簿検査を求められたのに抵抗して、中山の予算は「核兵器製造に関与していたので」秘密であると説明した一件であった(8)。

元来、中山科学院とINERは共同の安全部隊による厳重な警備のもとにあった。INERの上級職員の多くが軍人であり、その多くが唐将軍のように核兵器推進派として知られていた。1970年代中期にINERを訪問したあるIAEA職員は、ただ車でサイトにいっただけで疑念がわきあがったと話す。なぜなら、2つの別々の施設と考えられている両者の間にはフェンスもなく、頻繁に人々が行き来していたからだ。米国関係者は、INERは原爆製造を可能にする決定的に重要な分裂性物質である金属プルトニウムを生産する計画の核心的要素の調達を容易にするためだけに作られたと確信している。

カナダから供給された台湾研究炉の工事は、1969年の9月に始まり、1973年4月に稼動を始めた。この炉は4万kWの天然ウラン重水研究炉で、インドが1974年に初の核実験用にプルトニウムを生産するために使われたものと同型であった。カナダは台湾に対して、米国由来の重水と25トンの天然ウラン燃料棒をも供給した。

もしこの炉が全出力で8割かそれ以上の稼働率で運転していたら、年間に10kg以上の兵器級プルトニウムを生産できていたことだろう。しかしこの炉は、当初それほどうまく稼動せず、1975年末までに15kg、1978年までに約30kgを生産しただけであった。

1969年、INERのほかの施設の工事が始まった。天然ウラン燃料製造施設、再処理施設、プルトニウム化学実験所である。台湾はこれらの施設を自力で、フランス、ドイツ、アメリカその他の国々から得られた設備を使って建設した。

この燃料製造施設は1972年か73年に運転を開始、南アフリカ産の天然ウランが使用された。年間20〜30トンの燃料製造が見込まれたが、これは研究炉が必要とする燃料のほぼ2倍に相当した。1972〜74年、台湾は南アフリカのウランを約100トン購入した。

1970年ごろ、研究炉の隣に位置する「熱実験室(Hot Laboratory)」で再処理施設の工事が始まった。建設は1976年の終わりに完成する予定であった。原子力委員会の事務局長を務めるビクトリー・チャンは、そこで生産できたプルトニウムはわずか15グラムで、ひとつの核兵器に必要とされる分量にはるかに足りない量であったと述べた。

ある報告によるとこの施設は、遠隔操作機、燃料溶解器、分裂生成物を分離するためのごく小さい攪拌安定器を装備した、コンクリートで遮蔽された小部屋(それは「暑い部屋」と呼ばれた)一室であった。この施設の目的として明らかにされていたのは、アメリカから供給された高濃縮ウラン燃料を使った研究炉からの使用済み燃料を再処理することであった。しかし1975年にアメリカはこれら燃料の一部を再処理する許可を台湾から求められたがそれを拒否した。INERもそれとは別にもっと小規模な再処理実験所をほかの建物に建設した。これは、ノルウェーの再処理計画にかかわっていたあるノルウェー人の援助を受けてのことだった。この研究所は、放射化された物質の再処理についてその諸側面を研究するために使われるところであった。
 
 台湾の再処理施設を巡っては、かなりな混乱がある。「熱実験室」の再処理施設は拡張され、研究炉からの使用済み燃料からプルトニウムを抽出していたかもしれなかったと示唆する報告もある。

 台湾はまた、もっと規模の大きい再処理能力を手に入れようと試みていた。そしてアメリカが1969年にNOを表明したときに、台湾は次にフランスへ向かった。「イスラミック・ボム」の執筆者であるスティーブン・ウェイスマンとハーバート・クロスニーは、1973年2月5日にフランス原子力委員会のバートランド・ゴールドシュミットがQuai d'Orsayの科学部門主任のGilles Curienにあてた手紙を入手した。その手紙の中でゴールドシュミットは、フランス企業であるSaint Gobain Techniques Nouvellesが台湾に対して年間100トンの使用済み燃料を再処理できるプラントを売りたがっていることを書いている。この取引は実現することはなかったが、「イスラミック・ボム」によると、ゴールドシュミットはSaint Gobain社は「すでに台湾に何らかの小規模な再処理設備を供給した」と書いている(11)。

なぜ金属プルトニウムが?

 1970年代中期までには、「プルトニウム化学実験所」には、4つのグローブボックスとそれらの間をつないでプルトニウム溶液を行き来させる配管があった。特殊な中性子シールド材を用いた1つのグローブボックスは金属プルトニウム生産のための真空炉(vacuum reduction furnace)まで持っていたが、金属形態でのプルトニウムは民生用途を含めても非常にまれなものである。

 この研究所は1975年から76年まで稼動しており、台湾が1974年にアメリカから購入した1075グラムの抽出プルトニウムの供給を受けていた。1976年中期の時点で、この研究所は500グラムを処理し、表向きにはアメリシウムが抽出されていた。残りのうちの175グラムは配管とグローブボックスにいれられた。
 
 ある関係者によると、Saint Gobain社はその設備をプルトニウム化学実験所とその他の建物に供給した。フランス政府とのトラブルを避けるために、一人または複数のSaint Gobainの社員が長期休暇を取って、研究所の支援と設備設置を行った。

 これらすべての行動を分析したCIAが、1974年に「台北は、明確に兵器オプションの意図を持って小規模な核開発計画を実施している。そして5年かそこらのうちに、台湾は核兵器を製造できるようになるだろう」という結論を出したのも驚くにはあたらない。(12)

保障措置をめぐる判断

一方、国際情勢の変化が、台湾の行動を監視する国際社会の能力を大きく困難にしていくことになった。
台湾は1968年に核不拡散条約に署名した。しかし1968年当時、中国国民党員の外交官が、「われわれはこの条約に反対しない。なぜなら、この条約は私たちに原爆の保有を許すものだからだ」と語っていたことを、メリーランド大学のジョージ・クエスター教授は1974年に書いている(13)。

 今読むとこの発言は奇異に聞こえるかもしれないが、1960年代の西側諸国が台北を正統な中国の政府であるとみなしていたという事実の反映なのである。今、核兵器を持っているのは中共政府かもしれないが、NPTの目的は「国家の責務」を明らかにすることであり、台北が中国の「正統な政府である」以上、台湾は核保有国側なのであるという論理だったのだ。

 しかしIAEAと台湾が、台湾を明白に非核保有国として扱うNPT型の保障措置合意の交渉を始めた1970年、核保有国扱いされたいという台湾の希望は消滅させられ、それまでの台湾の努力は、国連とIAEAが中華人民共和国を全中国の代表として認識した1971年に、終止符を打たれることになる。

台湾がIAEAから脱退を余儀なくされたあと、台湾とアメリカとIAEAは、既存の三者間合意によって台湾の核物質と核施設に関する保障措置を続けるための根拠を与えるということに非公式に合意した。しかしながら、この合意における保障措置の手順は(これはIAEAの委員会にはついぞ送られなかったものなのだが)、古びて、あまりにも無力なものであった。
中華人民共和国を1971年に承認するとともに台湾と断交したカナダは、INERに提供した研究炉の保障措置の責任を放棄したので、前述の三者間合意でアメリカとIAEAがその責任を引き継ぐこととなった。

IAEAは1970年代初頭に初めてINERの査察を行ったが、派遣された査察官も少なく、機器も不十分という非常に制限された査察権限のもとで行われた。それにもかかわらずIAEAは、INERがさらなる精査を必要とするような核活動に関与していたと、1975〜76年までに結論付けた。

ワシントンポストによると、1976年初頭には総計約500グラムのプルトニウムを含む10本の燃料棒の所在がわからなくなっていたとして、台湾が秘密裏にそれらを再処理したのではないかという懸念が巻き起こった(14)。ワシントンポスト紙はINERの記録に基づいて、それらの燃料棒が移送されていたこと、その行き先がたぶん燃料製造工場であったと書いている。IAEAの監視カメラは、それらの移送を記録しているはずであったが、そうはなっていなかった。IAEAは、それらの燃料棒が実際に燃料製造工場に行ったのか、それともどこかほかのところへ転用されたのか確認することができなかった。

また、査察官たちは、プルトニウム化学実験所が金属プルトニウムを生産できることを発見、そしてそれがアメリカから供給されたプルトニウムを用いて運転されていたことをも発見した。この査察官たちは、この施設で定期的な査察が行われるよう主張しなければならなかった。

状況の深刻さを受けて、IAEAの査察長官ルドルフ・ロメシュは1976年5月に個人的にINERを訪問した。当初INERの職員たちは彼がプルトニウム化学実験所へ行くことに抵抗したが、最後には態度を軟化させた。その夜、台湾の上級核関係者との夕食の場で、ロメシュは民生利用を目的としたいかなる核関連活動も支持できると語った。しかしその日に彼が実際に見たことに基づいて、彼はINERの活動の一部について質問を行った。それは、彼のことばによると、破壊的なインパクトを持つ可能性があったものであった。彼は、それらの活動が台湾に利益をもたらすかどうかをもう一度考えるよう求め、何が起こっても台湾は保障措置の面目をつぶすようなことをするべきではないと言って締めくくった。

何ヶ月間かの準備を経て、1976年7月にIAEAはINERに対して今度は規模の大きな査察を行った。ここでは、保障措置を受けていない燃料が原子炉に装荷されていないかどうかを結論付けること、査察をさらに厳しいものとすること、研究炉においても燃料製造工場においても核物質のベースラインを確定することが目的であった。

以前のように、ただ燃料棒の放射能をテストするのではなく、査察官たちはサイト内の使用済み燃料の約半量に規模を広げた測定を行い、それらの燃料棒が炉心のどこにあったかについて台湾が公表している記録と整合性があるかどうかを調べた。台湾の発表と実際の測定値との間に不整合があることを査察官が発見したとき、INERの職員は公表した記録に間違いがあったのだと申し立てた。それでも、IAEAはその不整合性を不問に付することは難しいということに気づいた。

多分「熱実験室」のものだと思われるのだが、もう一箇所の再処理施設も査察を受けた。そこは建設工事のために開放されていたので、査察官たちはセルに入ることができた。そこは、放射性物質を扱うようなところとは思われなかった。査察官たちは、このセルが小規模であることから、kg単位でのプルトニウム抽出は不可能であったと確認した。

この査察の後、INERの保障措置は大きく前進したが、IAEAはそれでもなお、台湾がそれまでにわずかでも燃料棒を再処理したかどうか確認することができず、アメリカはますます、台湾の意図について、またIAEAが台湾で秘密裏に行われる再処理を突き止めるために十分に強い姿勢で反応するかどうかについても懸念を深めていった。アメリカの兵器管理軍縮庁(ACDA)職員は、「秘密裏にであれ公然とであれ、大量にであれわずかであれ、私は台湾が再処理を行うことには反対だ」と述べた(15)。

1976年の訪問の後まもなく、ワシントンポストに掲載されたある記事で、アメリカの諜報機関が台湾の秘密の再処理の証拠を得たと報じられた(16)。関係者はその後、証拠があるということを否定した(17)。

アメリカの圧力が続く中で、9月14日、当時の首相であった蒋経国は、アメリカ大使に対して台湾が独自の再処理施設を保有したり再処理に関係するいかなる活動にも関与したりしないという約束を取り交わした(18)。同じ内容に関する外交覚書の取り交わしから3日後のことであった。アメリカの関係者らはその直後に、もし首相の約束がわずかなりとも破られるようなことがあれば、そのことは原子力に関する協力を「根本的に危機に陥れることになる」と発言した。アメリカはその時点で、台湾で数を増やしつつあった原子力発電所への低濃縮ウランの主要な供給者であった。

さらなる欺瞞?

1976年の後半から1977年初頭の時期に、IAEAはさらに二つの困った事実を発見した。まず一つは、査察官が熱実験室の近くの使用済み燃料プールの底に「水門」を発見したことだった。このゲートは、スクラップや瓦礫などで覆われていたのだが、垂直の通路へと続いていた。INERの職員はこのゲートは熱実験室へ使用済み燃料を運ぶためのもので、もともとのカナダの設計の一部であると主張した。しかし、施設の設計情報の中には、そのようなゲートが必要とは記載されていなかった。

さらに加えて、査察官は、まさに研究炉の燃料と同じに見えるが通常の70%のウランしか装荷されていない燃料集合体を5本発見した。3本は炉心にあり、2本は貯蔵されていた。INERの職員は、それらの燃料棒には固形アルミニウムによって抽出された10cm大のウランロッドが含まれていたといった。あるアメリカの関係者は、それらは普通の燃料棒に見えたといい、1976年7月まではそれらが放射能を含んでいるかどうかだけがテストされたと語った。

そのような燃料棒は、放射性物質を放出することなく使用済み燃料プールの中で小さく切断することも可能であっただろうし、輸送するのもずっとたやすかったことだろう。もともとのサイズの使用済み燃料は小規模な再処理実験所には合わせることができないので、職員の中には、この本物のように見える燃料棒はその問題を克服するために設計されたのではないかと推測している。
これらの最新の暴露は激震を引き起こした。そして、台湾政府からのあいまいな声明は、火に油を注ぐだけの結果となった。蒋経国首相の「私たちは核兵器を製造する能力も施設も持っているが、決してそれらを製造はしない」との発言だ(19)。

アメリカは現在、台湾はその原子炉を閉鎖したし、1977年にはロスアラモス国立研究所の科学者によってすべての炉心にあった燃料は綿密な査察を受けたと主張している(20)。

このプロセスによって、炉心にある燃料棒の放射化の履歴について台湾が明確に公表することが担保されることになり、今後のいかなる転用をも探知することができるように思われた。しかし、それでは過去の転用の問題は解決されないしすることもできなかった。

熱実験室にあったホットセルはプルトニウムやウランの抽出をしない使用済み燃料研究用に改変されたものの、台湾はそのほかの再処理施設をすべて閉鎖した。

アメリカはさらに、台湾がアメリカに対して、これまでに供給したプルトニウムを返還するよう主張した。エネルギー省によると、台湾は1978年に863グラムのプルトニウムを返還している。そのほかの200グラムは処理の過程で失われたと考えられている。

アメリカによる締め付けの強化

議論が一段落すると、アメリカは台湾の研究炉がもたらしうる危機を低減させるための手段をとり始めた。まずは、研究炉が生産できる核兵器級プルトニウムの量を減らすために、炉心を低濃縮酸化ウランと天然ウラン燃料集合体を使う新しいものに変えることに台湾を合意させた(21)。
第二のイニシアティブは、原子炉の使用済み燃料をすべて撤去するという、より野心的なものであった。輸送ルート、保安問題、安全上の疑問に関して何年も協議を重ねた後、アメリカと台湾は1985年に輸送の取り決めを最終決定した。その燃料は米国由来のものではなかったので、アメリカは法的な問題についても説明を行わなければなかった。

1997年までに、78kgのプルトニウムを含んだ使用済み燃料がアメリカに返送された。しかしながら、燃料棒の最後の輸送は、環境上の問題から連邦裁判所で阻止された。約6 kgのプルトニウムを含んだ最後の輸送分の燃料棒が、今後アメリカに輸送されるのかどうかは不透明である(22)。

変節者

今でもその理由は不明であるが、1987年にINERは1976年の約束を破って複合熱実験施設(Multiple hot cell facility)を建設し始めた。1988年初頭にその施設を訪問したアメリカの関係者は、その施設を閉鎖するよう台湾に圧力をかけた。プルトニウムが抽出されたという証拠はなかった。

この再処理施設を建設するという決定を下したのは蒋経国であった。彼は、核兵器への野望を抱き続けていたと多くの人々が信じていた人物である。彼は1988年1月13日、再処理施設が閉鎖される前にこの世を去った。建設は彼の後継者である李登輝によって継続された。しかし、李登輝はこの事実を知らなかったのではないかという関係者もいる。

アメリカ政府がこの機密施設について知りえたのは、トップレベルの情報提供者、つまりINERの副所長であった張憲義からではなかったか。報道によると、張憲義は、1988年1月の休暇中に家族と共に、CIAの助けを借りてアメリカに亡命した(23)。

1988年3月に台湾はIAEAに対して研究炉は軽水炉への転換のために閉鎖されると伝えた(24)。1997年後半の時点で、研究炉は再開されていない。定期報告(INERのホームページ)は転換工事が進行中であることを示しているが、その進捗はまだ初期の段階のままである(25)。

ワシントンポストは、台湾がアメリカ政府関係者との協議の後に研究炉を閉鎖することを決定したと報じている(26)。あるレポートによると、アメリカ政府が重水の輸送を停止することを決定してしまったために、台湾はこの問題に関してほとんど選択の余地が残されていなかったという(27)。結果的に、原子炉の重水は撤去され、アメリカに返還された。こうして、研究炉の再開は不可能となった。
台湾のメディアは、張憲義がアメリカに対してどのような核兵器の秘密を提供したのかについて推測であふれた。しかし台湾の政府関係者は、断固として、台湾には張憲義が持ち出せたような核兵器計画も核兵器に関する機密文書も存在しないと言い放った。
興味をそそるが未確認の報告がエコノミスト誌に掲載された。張憲義がアメリカ人に語ったこととされるその内容によると、台湾は最終的には核弾頭を1000kmの射程距離を持つ「スカイホース弾道ミサイル」に装荷することを計画していたという(28)。スカイホースミサイルの開発は、アメリカの反対を受けて数年前に終結したと考えられていたものだ(29)。

呉大猷は正しかった

再び、台湾の核兵器保有を阻止しようとするアメリカの決意は成功した。1980年代末期までに、アメリカの関係者によると、その目標は台湾が核開発に「近づこうとすることすら」をも阻むことであった。

台湾はこれまで、もしいくらかの抽出を行ったことがあるとしても大量のプルトニウムを抽出したことはないが、アメリカの技術専門家が認めるのには、台湾はプルトニウムの抽出とそれを金属にすることについて重要な教訓をたくさん学んでいる。アメリカの専門家がさらに心配するのは、台湾が核爆発物の製造についても大量の知識を得ているということだ。台湾はほかの国々よりも早く核保有へと転じることができる。しかしながら、台湾は抽出プルトニウムか高濃縮ウランを入手する必要があるわけで、過去の経験から言ってそれを秘密裏におこなうことは困難である。

しかし、仮に台湾が秘密裏に核兵器製造を行いえたとしても、結果的にはそれによって得るものよりも抱え込む危機の方が大きくなるだろう。台湾のリーダーたちは、1967年に呉大猷が、核兵器製造計画を概説した最高軍事機密文書に対して行った再検討を想起するだけの賢明さを持っているのではないか。先に引用したように、呉大猷が当時蒋介石総統に対して、それも過酷な独裁者によって統治されていた国において、その計画を中止するよう進言したことは、総統の核兵器に対する考え方が呉大猷に知らされていなかったことを考えれば、実に大胆な発言であった。

中山科学院の指導者たちは明らかに呉大猷を疎ましく思っていた。彼らは後に、呉大猷を国家の裏切り者とよび、呉大猷のこのエピソードが台湾の核兵器への希求を終わらせたわけではなかった。しかし呉大猷は、台湾が核兵器を得るために着手しようとしたもっとも直接的な試みを断念させる助けとなった。また、彼の勇気ある異議申し立ては、核兵器肯定論が台湾の軍部を超えて広がっていくことを防ぐための鍵としても機能した。

30年前、核兵器計画は台湾の安全を増進するどころか損なうことになると主張した呉大猷は、実に正しかった。彼の分析は、時の試練を乗り越えて今も有効である。

本誌の編集者で物理学者であるデビッド・オルブライトは、ワシントンの科学・国際安全研究所(ISIS)の所長。コーレイ・ゲイはISISの政策アナリストである。

(訳・宇野田陽子)

<注>
(1) James Kynge, "Taiwan to Study Need for Nuclear Weapons," Reuters, July 28, 1995
(2) Joyce Liu, "Taiwan Won't Make Nuclear Weapons, says President," Reuters, July 31, 1995
(3) Jack Anderson, "Secret Report Sees Taiwan Near A-Bomb" Washington Post, Jan. 25, 1982.
(4) Ibid.
(5) "Taiwan considered Developing Nuclear Weapons in 1960s," Sing Tao Jih Pao, Sept. 22, 1997, p. A10 (translated by FBIS); interview with Professor Ta-You Wu, Oct. 10, 1997
(6) Details of the Hsin Chu program are from: Ta-You Wu, "A Historical Document - A Footnote to the History of Our Country's Nuclear Energy's Policies," Biographical Literature, vol.v52, no. 5, May 1988; interview.
(7) "Taiwan Denies Plans to Build Nuclear Weapons," Zhongguo Tongzun She, March 22, 1988 (translated in FBIS-CHI-88-060), March 29, 1988, P.49.
(8) Lincoln Kaye, "Atomic Intentions," Far Eastern Economic Review, May 3, 1990, p.9.
(9) David Binder, "U.S. Finds Taiwan Develops A-Fuel," and "Taiwan Denies Move," New York Times, Aug. 30, 1976
(10) Edward Schumacher, "Taiwan seen Reprocessing Nuclear Fuel," Washington Post, Aug. 29, 1976
(11) Steven R. Weisman and Herbert Krosney, The Islamic Bomb (New York Times Books, 1981), pp.152-53
(12) Director of Central Intelligence, Memorandum: Prospects for Further Proliferation of Nuclear Weapons, Sept. 4, 1974 (sanitized copy released under Freedom of Information Act)
(13) George H. Quester, "Taiwan and Nuclear Proliferation," Orbis, vol. 18 (Spring 1974), pp. 140-50.
(14) Don Oberdorfer, "U.S. Upset by Taiwan A-Inspection Slip-up," Washington Post, June 7, 1976)
(15) Binder, "U.S. Finds Taiwan"
(16) Schumacher, "Taiwan Seen Reprocessing."
(17) Senate Subcommittee on Arms Control, International Organizations, and Security Agreements, Committee of Foreign Relations, Hearings on Non-Proliferation Issues, March 19, April 16 and 28, July 18 and 22, October 21 and 24, 1975; February 23 and 24, March 15, September 22, and November 8, 1976 (Washington D.C.; U.S. Government Printing Office, 1977), pp. 345-71.
(18) Ibid., p. 349.
(19) Fox Butterfield, "Taiwan Denying Atomic Operation," New York Times, Sept. 5, 1976.
(20) J. R. Phillips, et al., "Nondestructive Verification of the Exposure of heavy-Water reactor Fuel Elements," Los Alamos National Laboratory, LA-9432-MS, UC-15, June 1982.
(21) Frederick Chien, Representative, Coordination Council for North American Affairs, to David Dean, Chairman and managing Director, American Institute in Taiwan, Feb. 23, 1983
(22) David Albright, Frans Berkhout, and William Walker, Plutonium and Highly Enriched uranium 1996 (Oxford: Oxford University Press, 1997), pp.366-68
(23) Stephen Engelberg and Michael Gordon, "Taipei Halts Work on Secret Plant to Make Nuclear Bomb ingredient," New York Times, March 23, 1988.
(24) "ROC Denies Research Into A-Bomb," China Post, March 25, 1988.
(25) "Taiwan Mulls Reopening Research Nuclear reactor," Reuters, July 1, 1996.
(26) Jeffrey Smith nd Don Oberdorfer, "Taiwan to Close Nuclear Reactor," Washington Post, March 24, 1988, p.A32.
(27) "Legislators Ask Government to Seek Chang's Extradition from U.S.," China Post, Mach 26, 1988.
(28) "Don't You Shove Me Around," Economist, April 2, 1988.
(29) Robert Karniol, "Taiwan's Space and Missile Programs," International Defense Review, August 1989.

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