ノーニュークス・アジアフォーラム通信 No.58 より









 

第10回ノーニュークス・アジアフォーラム(台湾 9.27-10.2)報告


         
         10月2日、游首相と会見  新聞スクラップを広げ、パソコンで東電スキャン
                     ダル、沸騰水型炉の危険を伝える(伊藤孝司撮影


歓迎茶宴

 とーちは9月26日の記者会見のため25日から台北に入ったが、ほとんどの海外参加者は27日に来台。夜到着する人も多く、歓迎茶宴といっても少し散漫にならざるをえなかったが、張俊雄前首相が現れたのにはびっくりした。
「明日は民進党の結党16周年の行事と重なっているのでフォーラムに参加できない。申し訳ない」と彼はいった。
私が「2年前の第四原発中止声明は格調高くすばらしかったです。日本で翻訳をニュースレターにのせました」というと張前首相は「引き続きがんばります」と。

国際会議

 台北での会議は、宿泊場所と同じ国立師範大学なので便利。28日の会議は、台湾民進党元党首の林義雄さんの開会あいさつではじまった。

 林義雄さん

 1979年の美麗島事件で獄中にいるとき母と娘2人を暗殺された彼は、一貫して台湾の民主化運動の前線に立ってきた。現在、核四公投(第四原発国民投票)を求め、毎週土日、台湾各地で行進をしている。1年で1000キロ歩く予定だ。「信念が各地の人々に伝わり、大きなデモよりもむしろ影響は大きいだろう」と運動関係でない台湾の友人がいっていた。

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 第1セッションは「台湾非核家園とドイツ非核政策」というテーマ。行政院政務委員の葉俊栄(敬称略、以下同様)が30分の講演、「困難を克服して非核家園をつくろう」と。政府の大臣の講演なんてNNAFでは初めてだ。そして、フェリックス・クリスチャン・マテスがドイツの脱原発政策を紹介した。

 第2セッションは「核廃棄物問題」。ミシェル・ボイトがユッカマウンテンの使用済み核燃料最終処分場建設問題を報告。アンドレイ・ペトロフはロシアでの運動を報告しながら、使用済み核燃料をアジア各国から輸出しないでと訴えた。そして、矢部忠夫柏崎市議は反プルサーマル闘争の勝利と六ケ所村再処理工場建設問題等を、林碧堯環境保護連盟元会長が台湾の核廃棄物問題とランユ島の住民たちの闘争を、それぞれ報告。韓国では核廃棄物処分場建設問題が切迫してきている。ソ・ジュウォンは、核廃棄物処分場候補地といわれるヨングァンで9月11日、3000人の住民が反対集会とデモを行なったと話した。台湾第二原発の現地で骨の曲がった魚をたくさん発見した范正堂は、第二原発に新しく核廃棄物貯蔵庫が建設中だが、ランユ島の核廃棄物を持ってくるのではないかとの不安を表明した。

 第3セッションは「各国報告」。まず、北川れん子衆議院議員ととーちが東電スキャンダルを報告、「台湾の原発も危険だ。第四原発も危険だ」。(東電スキャンダルは台湾でこれまでほとんど報道されていなかった。パワーポイントでの発表はインパクトがあり、とーちはその後いくつかのテレビ、新聞のインタビューも受けた)。韓国はファン・ソンウォン、台湾は王塗発環境保護連盟元会長、フィリピンはコラソン・ファブロスが、それぞれ報告。

 第4セッションは「核安全問題」。ピール・ド・ライクがヨーロッパの最新状況を、伴英幸と大庭里美が日本のプルトニウム問題等を、スレンドラ・ガデカールがインドの核問題全般を、それぞれ報告。
翌日の午前も会議(行動計画等)を行なったが、各国とも重大な問題をかかえているので、さまざまな議論がとびかった。司会、通訳、翻訳とたいへんだった郭金泉さん、施信民さん、揚肇岳さんをはじめ、台湾のみなさん、ご苦労さんでした。(ここまで佐藤大介)

                 
    
    
非核家園晩会

 アジアフォーラムの2日目、「文化の祭典」が台北市内繁華街の広場で行われた。華やかでしかも楽しい太鼓と踊りでオープニングを飾った夜は盛況で、フォーラム参加者や反核のグループのみならず、道ゆく人も立ち止まり、集っていた。日本からはとーちさんがギターを引きながら熱唱。そして、日本での阪神大震災の時の体験、原発震災の危険性と日本から台湾への原発輸出の罪深さを涙ながらに語ってくれた。また、大庭里美さんは、被爆2世の詩を夜風に吹かれながら朗読。
 反核の人たちばかり集めても、広がりに限りがあるので、このようなやり方は大変良いと思った。とかく反核だとか反原発とかいうと暗いイメージが多い。日本もこんなような催しが楽しくできないかしらん?(竹野内真理)

核四公投行進

 これまで一度も経験したことのない不思議なデモに参加した。考えた挙句のやり方なのだろう。一列になって黙々と辻辻を歩き続けるのだ。シュプレヒコール無し、鳴り物無し、核四公投のそろいのTシャツと菅笠のいでたち。注目度は抜群。毎週土日に30kmデモを1年くらいは続けるそうだ。2004年に総統選挙があるが、それをにらみながら、国民投票へ持ち込むことを目指すようだ。(伴英幸)

女性フォーラム

 29日の夜、貢寮郷の宿舎で女性だけのミーティングをもちました。まず、それぞれ簡単な自己紹介。このときも通訳を努めてくださった竹野内さんや大庭さんがフル回転で会を回してくださいました。それで、お互い(私は初めて出会った人ばかりだったので)何をどのようにして、今何をしているのか理解しあえたのです。
 貢寮郷の地元からは、長年反対運動をしてきた楊貴英さんと、20〜30代の2人が参加しました。
 楊さんはこの女性フォーラムのときも示唆深いことをいってくださったのですが、その前段の地元との交流会のときの言葉がとてもよかったのでご紹介します。私がはしり書きで書きとったものです。

「核電があってみなさんと知り合いになれました」
「もしも宇宙に大自然教があれば核電はないでしょう」
「政治については庶民にはわかりません。でも私たちは選挙に参加しています。選挙の折の公約は常にかわります。当選したらはっきりわからなくなります」
「常に私たちの地域を励ましてください。人権を考える人たちとも共闘したい。電気を買っている消費者には権利があります。いらない核電は拒否することができます」
「私たち台湾は民主国家へまい進しています」
「かつて私たちの砂浜(福隆海水浴場)は黄金の砂浜でしたが、核電の工事でみにくい砂浜になってしまいました」
「公民投票には自信がありません。現地の公民投票がいいのか、全国の公民投票がいいのか、教えてください」

 楊さんの投げかけがとてもよかったので、そのあとも深い交流ができました。つくづく、楊さんの様子を見ていて、彼女のような人が選挙に立候補できるようになればと願ったものです。

 若い地元の女性はつぎのように語りました。
「私が12才のとき、20年前の話です。私たちは塩寮に住んでいました。父は農夫でした。突然、『この土地は政府のものになるから』と言われ、3年前に建てたばかりの家をユンボで壊され知り合いの病院の病室に家族で避難しました。補償金はとても少なかったです。70〜80軒が同じように強制的に立ち退かされました。
 その後、いろんなところに住んだけど、やっぱりここがいいので、2年前からまた貢寮郷に住みはじめ、反対運動をしています。でも工事現場に行くのはつらくて足が動かない。だから明日は来れません」

 もうひとりの女性は、
「95年からここにいます。ドキュメント・フィルムを製作しています。そして、環境運動と反核運動をして、ここの人たちを手助けしたりしています。マスメディアは女性にとって重要でない言葉を伝えています。私はそこに生きている人の暮らしを記録したいのです。年をとった女性が力強く、とても力を与えてくれます。おばあさんがいつも前面に立つ。80才のおばあさんが必ずデモにも参加し、家族の反対にあってもやりたいことをやっています。そのうち家族もデモに参加するようになります」と淡々と語ってくれました。

 すると、韓国の若い女性たちも、自国のハルモニたちの様子を誇らしげに話しはじめました。しっかりと次の世代へ伝わっているようすがうかがえました。
 日本でも、私たちが、前に立つこと(若い人たちに立ちはだかりじゃまをするのではなく)を受けもたなければいけないと、心にしみこませました。(北川れん子)

          

第四原発建設地

 30日、第四原発建設地を訪れる。私は現地へは3回目の訪問となる。一旦は建設が中断し、そのまま建設中止が決定すると確信していたのに、陳水扁新政権の政権運営の都合で、工事が再開されたことに怒りと落胆を感じての今回の訪台でもあった。塩寮反核自救会の会長、陳慶塘氏が、今年5月に急逝されたこともあり、その追悼のためとの気持ちも強かった。会長さんの死去という悲しみはあるものの、そして第四原発の建設が再開、進んでいるということがあっても、反核自救会のあの元気な人たち、懐かしい人たちが出迎えてくれるであろうことを期待し、再会できる喜びを胸に秘めての現地入りであった。

 当日は生憎の雨模様、敷地内の様相は悲しいまでに変わっていた。生コンプラントの林立、現場事務所、倉庫などが所狭しと建設され、工事の進み具合を如実に示していた。聞けば、敷地内にあったケタガラン族の遺跡は、調査も保存されることもなく破壊されたとのこと。原発専用港の建設も進み、きれいだった砂浜も無残に変わっていた。
 ところが、原子炉及びタービン建屋は、その割には進んでいない。なぜかは分からないが…。これは今からでも建設中止に追い込める、現地の闘いが粘り強く続く限り…の思いを強くした。

 そのためにも、今回の東電スキャンダルにはじまる日本の原発の事故隠しの実態、電力会社が組織ぐるみで17年にもわたって隠蔽を続けていた実態が、実は台湾電力も含め、同質、同根であることを台湾の人々と共有することが何よりも大切であることを痛感した。このことをとりわけ現地の人たちに訴え、伝えなければならないとの思いである。
 台電現地事務所での台電側ブリーフィングは、とーち氏によってものの見事に東電スキャンダル発表の場に変えることに成功した。しかし、台電側にどれだけのダメージを与えたか…。

 会場を澳底活動センターに移して、反核自救会をはじめ現地の人たちとの交流集会である。昨晩は呉文通さん、楊貴英さん、林勝義さんとの再会を喜び合ったのだが、なぜか会場にそれ以外の懐かしい人々の顔がない。どうしたのだろうか。休日ではなく、忙しいのだろうとは思うものの、一抹の不安がよぎる。ここまで建設が進んだことによるあきらめからかなど。集会に集まった人は主にケタガラン族の人のようで、漁業関係者は皆無のよう。話し合いも、今後の反核運動をどう構築するかの視点よりも、フォーラム参加各国からの現地報告が主となった。

 現地からの声は、陳総統誕生に最大限の尽力をしたのに第四原発中止決定ができない現政権への痛烈な批判であった。また、台北市など、都市部での反核運動体が、現地運動体と十分な連携が出来ていないのでは…とも感じた。そんな中で、故陳慶塘氏の息子で、今年貢寮郷の郷長に初当選した陳世男氏が、忙しいなか時間を割いて駆けつけ、感謝と今後も戦うの決意を述べてくれたことを喜んだ。
 反核自救会に対して、今後とも連帯して脱原発社会を目指して戦う、強い意思を込めて、ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパンからのカンパを佐藤大介事務局長から呉文通自救会、会長代行に手渡し固い握手を交わした。

 その後、予定を少し繰り上げ、原発工事の影響で砂浜が大きく変化した福隆海水浴場や、今もケタガラン族が居住する馬青集落、そして抗日記念碑をまわった。
 風習の違いもあるだろうが、故陳慶塘宅をお伺いし、哀悼のおまえりをさせてもらいたいと再三お願いしたが、時間等の制約から出来なかった心残りを抱きながら、次の会場の台湾第二原発現地、台北県金山郷、金山漁協へ向かう頃は夕暮れが迫っていた。(矢部忠夫)

        
                  第四原発1号機 2002.9.30 (伊藤孝司撮影)

原発輸出をとめよう

 第四原発の建設工事の進捗状況は、台湾電力の関係者の話によると、40%であるという。塩寮の美しい海岸から山にいたる傾斜地を削り、平地を作ってコンクリートの土台による基礎作りを終えたばかりという段階であった。原子炉を据え付ける鋼板にすでにひび割れが起きたという。現地の工事の進捗でみる限りでは、これから建屋の建設にとりかかる段階なので、原子炉ではなくて経済的にははるかに安いガス火力発電にでも転換できると思った。

 今回のフォーラムを通じてもっとも深く感じたことは輸出国の責任の問題だった。貢寮郷で地元の人々に対する日本の原発の損傷隠しの話が終わった後、中年の女性の「隠さなければならないほど危険なものをどうして日本は台湾に持ち込もうとするのか」という問いかけは痛い言葉だった。台北での会議の冒頭のあいさつでも、日本、アメリカと名指しで輸出国の責任の問題が述べられた。

 炉心の目の前には抗日記念碑が立っている。1895年に北白川の宮が率いる近衛師団が上陸した地点である。数年前日本にきてもらった台湾環境保護連盟の代表は、日本の原発輸出はこの日本軍上陸、植民地化に次ぐ第二の侵略であると集会で訴えた。日本からの原発輸出を許す結果となれば、やがては台湾の全民衆が歴史に刻み込む日本の犯罪行為として記録されることになっていく。地元でも静かだが同じ叫びを聞いたとき、日本人としての民族的責任の重大さを痛感したことだった。(宮嶋信夫)

第四原発と先住民族・ケタガラン

 第四原発建設現場を土砂降りの雨の中で見た後、林勝義さん(1924年生まれ)のインタビューをした。林さんは先住民族ケタガランの代表で、民族名は「ケタ・アノ・パル・リン」。ケタガランは、先住民族の中でも早い時期に漢民族によって同化され、日本による植民地時代には「平埔(へいほ)族」と呼ばれた。1620年代にオランダとスペインの軍隊が台湾へやって来るまでは、ケタガランの王国が台湾北部にあったという。第四原発の敷地内には彼らの遺跡が数多く残されているため、建設に強く抗議してきた。

 「原発敷地内の工事で、大量の椀・花瓶などの陶器と石の矢じり・ナイフが見つかりました。それは昨年の夏のことでしたが、台湾電力は1年後になって伝えてきたんです。しかも調査作業にケタガランが参加することを拒否し、臨時宿舎を建設するために遺物が出土した場所を破壊してしまいました。
 今までの工事で祖先の墓や伝統的な家屋が壊され、聖なる木が倒されました。金属精錬で使ったトンネルは部分的に残っていますが、その上に施設が建設されることになっており、工事が着工されると破壊されます。第四原発建設で、美しい海岸と遺産は全滅させられようとしています」

 夕方、林さんが「卯澳生態園」を案内してくれた。卯澳は第四原発から海に沿って東へ車で約15分の所にある。「生態園」には、道路と海岸線に挟まれた細長く広い敷地にたくさんの薬草が植えられており、この地域住民が管理しているという。その奥まった場所で、ケタガランの住居を復元する工事がおこなわれていた。
 「政府資金を得て、『生態園』を含めたこの地域の電力を太陽光・風力発電でまかなうための計画を進めています」と林さんは熱っぽく語った。ケタガランの人たちは、自分たちにとってかけがえのない遺跡を破壊する第四原発建設に反対すると共に、民族文化の回復と原発に頼らない生活を目指して着実に歩み始めている。(伊藤孝司)

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第二原発内の低レベル放射性廃棄物関連施設

 第二原発は運転開始から20年。さっさと廃炉にして欲しい老朽化の進んだ原発である。今回は付属施設である低レベル放射性廃棄物の減容施設と倉庫が視察の対象であったが、構内に入って最初に目に付いたのは巨大な建築中の建物であった。これも低レベル廃棄物の倉庫であるという。もう蘭嶼(ランユ)島に廃棄物を運び込むことはできないので、溜まる一方の放射性廃棄物をサイト内に貯蔵しておかなければならず、現在使っている第二倉庫と同サイズの「現代化廃料倉庫」を増設中なのであった。しかし巨大なものである。第一原発の低レベル放射性廃棄物もここに運ばれるらしいが、本当にそれだけだろうか? 蘭嶼島の貯蔵施設から「いつか」運び出されることになっている10万本近いドラム缶の行き場所は未定なのである。その懸念をぶつけてみると「ここには第一と第二原発の低レベル廃棄物だけを収容する計画である。が、政府の方針が変わればどうなるか判らない。それに従うしかない」という答えが返ってきた。やっぱり怪しい。この倉庫の容量はドラム缶4万本である。いずれにしても容量的には不足なのであるが、ここで活躍するであろう施設が廃棄物の体積を減らす「減容施設」なのだ。

 減容の方法は単純で、清掃に使った布や服、紙や木材、プラスティックなどの可燃物は焼却炉で燃やして灰にする(1時間に50kg程度しか処理できない)ことで容積を減らす、金属廃棄物は高い圧力(1500トン)をかけて押し潰して体積を減らすというだけのことだ。焼却灰もさらに圧縮するので、最終的には1/75から1/250にまで減容できることになるそうだ。
「焼却時に発生する粉塵を多段フィルターで取り除き、酸性ガスは中和して、綺麗にしてから放出する」とのこと。この施設の煙突は思ったよりずっと低いものだった。「放射線モニタリングも万全だから問題ない」というような説明を聞かされた。しかしもちろん放射能自体が減るわけではないから、1/100に圧縮されたものを入れたドラム缶は従来のものより100倍放射能が強い。本当に放射能はどうしようもないものだ。

 隣接したところに現在使用している第二倉庫があった。四方の壁は75cmのコンクリートで、4万本のドラム缶を収容できるのだがもう60%ほど詰まっている。制御室からのコンピュータ制御で、コンテナに入れて運ばれてくるドラム缶を遠隔操作で積み上げていた。こういうタイプのものを「現代化廃料倉庫」というらしい。つまり非現代的な倉庫もあるわけで、第二原発敷地内に作られた最初の倉庫や蘭嶼島の貯蔵場がそうなのだろう。最初の倉庫は2万1千本の容量の内、7千本しか入っていないそうだ。放射性排水の漏れ出しなど、様々な問題があった場所だ。80年代以降に建設された施設と、それ以前の戒厳令下で稼動していた施設には大きな違いがあるだろう。改修工事や設備の追加などもしているようだが、詳しいことは聞けなかった。今のところ、そこから第二倉庫に移す計画はないらしい。(多田篤毅)

核エネルギー研究所

 桃園県の放射能汚染道路(大漢渓から採取された土砂が原因といわれている)のあるところを過ぎて、「核エネルギー研究所」すなわち「原子力研究所」を訪ねる。初めに15分の紹介ビデオを見せられるが、原子力がいかに人類に貢献しているか、また研究所がいかに環境保護に力を入れているかを強調するだけで、原子力、あるいは放射能の危険性については、まったく説明がなかったと思う。原子力よりも「プラズマ・コーティング」「プラズマ・トーチ」の宣伝を強調していたので、通訳しながら、一体何だろうと思っていたら、そのあと実物を見せられた。

 プラズマ・コーティングは、プラズマを利用したフィルム・コーティングといったもので、部屋に入ると金ぴかのスプーンや仏像が並んでいた。ステンレスやセラミックや、さらにはプラスチックにコーティングをしているのだが、これで中身を保護し耐用年数を延ばすことができるという専門家の先生の説明だった。しかし、なんで原子力研究所に行って、まがいものの仏像やスプーンを見なければいけないのかよくわからなかった。プラズマ・トーチとは、プラズマで廃棄物を高温燃焼させる技術をさしているらしい。ドイツのフェリックスが「そのプラズマはどうやって作り出すの?」と聞いた。「高電圧をかけて高温を作りだし、それによってプラズマを発生させる。夜間の電力を使っている」という説明だった。オランダのピールが「じゃあ、エネルギーを節約しているのではなくて金を節約しているわけだ」というと「そうです」という答だった。

 ここは、70〜80年代には研究用原子炉(CANDU型)を使って軍事開発をしていたのだが、数回(5回とも7回ともいう)事故があり、核開発が発覚したため中止されたとのことである。事故によって流された廃液によって大漢渓の水田や飲料水が汚染された。この話は前回7年前に来た時も聞いてたいへん驚いた。どのような事故だったのか、もっと詳しく知りたいと思っても、燃料棒が爆発したらしいというくらいで、やはりわからなかった。軍事開発だったので、とにかく秘密にされているらしい。その使用済み燃料も私が聞いた人は「地下のプールにある」と言うし、他の人は廃棄物貯蔵所に置いてあったがずっと前に米国に移されたと聞いたそうである。

 大漢渓の汚染水田入り口には、「環境試験区」という立て札が立っていた。地元で監視を続ける林さんによると、20年(15年?)前の事故で1600ベクレルが流出し、この水田の土壌を数回にわたって入れ替えたが、それでも1kg中200ベクレルが検出されたとのこと。そして汚染された物質も、山のあちこちに捨ててあるらしい! (大庭里美)

        

放射能に脅かされる夢の島

先住民タオ族の島
 台東まで空路50分。そこから18人乗りの軽飛行機に乗り換えた。青い海の上を飛ぶこと20分で、島影が目に飛び込んでくる。山がそのまま海になだれ込むような平地の少ない島、それが蘭嶼(ランユ)島であった。
周囲が40キロ、この小さな島に住むのはフィリピン人に近いとされる先住民族タオ族の人々である。3000人が今も暮らしている。
 いまでこそ本土と同じコンクリート製の住宅が見られるが、伝統的な家屋は半地下式の木造である。台風を避けるために工夫されたものだ。
 水を張った棚田には、里芋の葉が揺れている。よく見ると茎が赤い。タロイモである。豚やヤギが海岸、原っぱ、森の中、いたるところを走り回っている。野生ではない。ちゃんと飼い主がいる。人里離れたやぶの中では、生まれたばかりの子豚が乳房をくわえていた。
 タオの人の食糧は、このイモと豚、ヤギ、そして飛び魚である。漁期は春から初夏にかけてだという。集落の近くの海岸には、山の木を使った手作りの舟(カヌー)が並んでいた。
 こんなのどかな島に、低レベルの核廃棄物貯蔵所が造られてしまった。1982年のことである。「缶詰工場をつくる」。そんな触れ込みだったという。

広がる放射能汚染
 異変に気がついたのは島の人々だった。産まれてくる子供に、先天異常が続出したのである。わずか10年そこそこで、こんな小さな島に50人もの子供が「障害」を持って生まれてきた。もの凄い高率である。子供だけではない。体をこわす大人も続いた。
 海の近くの核廃棄物貯蔵所には、簡単な建て屋が造られ、9万8千本のドラム缶が置かれている。核廃棄物の発する熱の関係で、建て屋内には水がたまる。その水をそのまま海に流していた。悪いことにドラム缶は腐食が始まっていた。ボロボロのものもあるという。海に流された水は、まぎれもなく放射能に汚染されていたのである。付近の魚は汚染され、それをタオの人々は食べた。

必死の抗議闘争
 1988年から撤去を求める闘争が始まった。その結果、94年には「2002年に撤去する」と台湾電力に約束させた。しかし95年、台湾電力は突然施設の増設を発表する。
 怒ったタオの人は伝統的な戦闘用の衣装に身を包み、核廃棄物貯蔵所の専用港に石を投げ込み、施設に生卵を投げつけ、横断幕を燃やすなど激しい闘いを繰り広げたという。
 その後も現在に至るまで闘いは続いている。特に第四原発の反対闘争には先頭に立ち、原発のゴミの捨て場所がどこにもないことを広く明らかにしていった。その意味で、第四原発の現地・塩寮の人々の信頼は厚い。

反故にされた約束
 10月1日午後、核廃棄物貯蔵所の李副所長に面談することができた。
 汚染水の排出について2点が明らかになった。一つは排出量が年間数十トンという量であること。もう一つは、激しい住民の抗議にも関わらず96年までそのままタレ流していたことである。その後はフィルターでこしているという。
 驚いたのはこれから最低6年間、2008年までは、核廃棄物貯蔵所の撤去はないということである。9万8千本のドラム缶のうち、相当数が腐食が進みボロボロなのである。一説によると3万本といわれている。
 李副所長は、「現在調査中で最終的に何本になるか分からないが、現在のところ600本」という言い方をした。「ボロボロなので移動することができない。6年かけて詰め替える」。そのほか、「2600本の軽度のサビは、ペンキの塗り替えが必要だ」という。この作業を、所内で2003年4月から開始する予定である。しかし、これも放射能相手の仕事だ。詰め替え作業、ペンキの塗り替え作業時の被曝は避けられない。もちろんその危険性を熟知している台湾電力の社員は、この仕事に就くことはないだろう。じゃあ、誰がするのか。やりきれない思いにとらわれた。

行き場のない核廃棄物
 危険な作業をやり終えたにしろ、後から後から腐食が進むに決まっている。子供が考えても分かることである。本質的には、撤去しても新たに貯蔵するところがない、というのが最大の問題なのである。
 李副所長は、海外移送の可能性についても述べた。北朝鮮、ロシアとは国家間の調印が既に終わったという。しかし、核廃棄物の海外での処分は国際的世論が許さないであろう。もう一つ候補地に上がっているのが、台湾海峡にある小島である。これも中国との緊張を考えれば実現性に乏しい。
 2年前、2000年総統選の公約に、蘭嶼島核廃棄物貯蔵所の撤去を掲げて当選した陳水遍総統も約束を守ることができなかった。いずれにせよ八方ふさがりなのである。
 核廃棄物の貯蔵は、現代のそして未来永劫の墓守である。何万年も重石をおわされる墓守である。もちろん、蘭嶼島・タオの人々にその義務はない。最も原発の恩恵に遠いところに暮らしてきたのだから。(向原祥隆)

         

ランユ島低レベル核廃棄物貯蔵場

 所々で車を止め、景色を眺めたり写真を撮ったりと数回休憩をとりながらでも3時間もあれば島の海岸線を一周できる。道路端や海岸の奇岩のいたるところに山羊が十数等の群れをつくっている、民家の近くではクロ豚と犬が我がもの顔で集落内を走り回わる。島の住民、動植物をはじめあらゆる生物がこの島の自然とともに静かに生きてきた。

 しかし、この島にアニト(タオ語で悪魔)がやってきた。台湾政府が缶詰工場を建設するためと偽って港を造り、続いて海岸に広大な核廃棄物の貯蔵場を建設した。1982年から台湾本土で発生した廃棄物の貯蔵が始まったが住民は85年まで核廃棄物貯蔵場であることを知らなかった。

 見渡す限り立ち並ぶ、半地下式のコンクリート製の貯蔵庫では結露による水が大量に発生しドラム缶、約4000本が腐食した。台湾電力はこのドラム缶を3本ずつまとめ再梱包し放射能漏れを防ぐ計画をたて、施設の改装に着手しているが、全量再梱包するのに最低6年はかかるだろう、新たな雇用も生まれるという所長の話しぶりには腹立たしさを感じた。

 放射能で汚染された水は何ら処理されることなく長い間、海に垂れ流され、漁場が汚染されてしまった。もともとこの島はサンゴ礁の化石など岩石で生成された島で、耕作できるような土地はほとんどない。したがって豊富な海産物を多く食べる住民の間で近年、ガンによる死亡者が増加、先天性障害児が50名も生まれたという深刻な事態となっている。

 かつては増設計画もあったらしいが、住民のすさまじい反対運動によって立ち消えとなった。96年以降は廃棄物の搬入も阻止している。2002年内には貯蔵している廃棄物を島外に持ち出す約束であったが、その約束は守られていない。過去には北朝鮮やロシアへ持ち出す契約が交わされたが多くの反対運動により、いずれも輸出許可がおりず実行されていない。

 現在、台湾では3か所、6基の原発が稼動している。その上、塩寮では第四原発2基の建設が進められている。狭い国土ゆえに、台湾の核廃棄物の処分はわが国と同様、深刻な事態となっている。
 なぜ気づかないのだろうか。原発を止めれば、これ以上核のゴミをつくらなくてすむことを、そして少なくとも今以上の苦しみから抜け出せるのに。愚かなことである。(高橋新一)

ランユ島は平和で美しく、島のあちこちには野生のヤギが家族で草を食み、黒豚が島中を歩き回りと、本当に天国に一番近いところのようでした。浜風に吹かれておいしいスイカをかじっていたら、呉文通さんや楊貴英さんら貢寮郷の人が5人現れてびっくりしました。夜はランユと塩寮の交流会になりました。こういうことは初めてだそうです。
 いずれも、陳水扁総統が選挙公約で中止を約束したのに、守られていないことに腹を立て傷ついているのです。現地の住民同士の主体的な共闘が強まることはとても意義あることだと思います。(小木曽茂子)


 再生可能エネルギー発展座談会

 「反核家園」を目指している台湾だが、脱原発に向けてエネルギー需給の在り方をどうするか、大きな課題である。10月2日午前は、再生可能エネルギーの発展に関する座談会がNNAFの一連の企画のひとつとして催された。
 ドイツのエコ研究所の若い学者フェリックス・クリスチャン・マテスが参加して、ドイツの脱原発の決定と代替案について話した。評価の細かい計算結果は除くとして、彼の主張(従ってエコ研の主張)によれば、省エネと新エネの積極的な導入が、脱原発を達成しながら、かつ、二酸化炭素削減を果たしていく道筋である。省エネ技術の中には、機器類の効率化が考えられている上に、例えば電気や熱源としてのコジェネレーションの積極的導入などが考えられている。燃料は天然ガスを念頭に置いているようだ。ロシアからのパイプラインがヨーロッパへ伸びているので、きわめて現実的な案と言えよう。他方、再生可能エネルギーも積極的に導入していく。ドイツは風力発電の伸び率が本当に急激で、真剣に、再生可能エネルギーの割合を12%以上に持っていこうとしていることが伺える。進展につれてコストも削減されてきて、市場化が進んでいるようだった。
 インドのスレンドラは身近な太陽エネルギー利用技術を紹介した後、風力や太陽光発電の連携などの重要性を訴えた。頼勁麟立法委員の報告によると、台湾では2010年までに再生可能エネルギーの電力に占める割合を1−3%にまで高める計画があるとのこと。将来はそれを15%へ持っていく目標をもっているようだ(2030年ごろ?)。
 質疑では、台湾の風況マップなどを作成し、潜在量を示すと同時に設置敵地など具体的な裏づけの元に議論すべきだといった意見が出てきたのが印象に残った。(伴英幸)

まとめの会議

 10月2日午後、共同声明文と来年以降の開催について討議した。アメリカのイラク攻撃反対を声明にいれるかどうかの議論などなど、長時間かかったが、なんとかまとまった。
 2003年は、ピールの提案で「ノーニュークス・ユーラシアフォーラム(仮称)」がオランダで開催されることとなった。
また、2003年は第四原発原子炉搬入(日立港⇒塩寮港)が予定されている。第11回フォーラムは日本で開催したらどうかという台湾の人の意見もあったが、状況と必要に応じて台湾でフォーラムを行なうということになった。(佐藤)         
游行政院長との会見

 出発前はそれぞれ各地での活動が忙しく、打ち合わせもないままに台湾に出かけた私たちだったが、第四原発を中止させる為に、今回の事故隠しを行政院や原子力委員会に直接説明し、申し入れをすべきだと、あちこちから声が出て、話がまとまり始めた。多田さん、伴さんなどを中心に請願書を作成し、台湾実行委員会の協力を得て、10月2日、游行政院長(首相)との面談が実現した。游首相は陳水篇総統に次ぐNO.2の人物だという。第四原発現地からも6人が参加することになった。40分の時間をどう使うか分刻みの予定を立て、皆精一杯の正装をして行政院へ出かけた。入り口左側の第一接待室と書かれた部屋の壁際には金襴の肘掛け椅子が並び、「小木曽茂子先生」などと書かれた名札がそれぞれの背に掲げられていた。

 游首相は、原子力委員会責任者の欧陽敏盛氏らと共に部屋に入るなり、20数名の参加者1人1人と握手をして回った。「台湾はアジアではじめて非核政策を宣言した。核も原発もないアジアの為に日夜努力をしてみえる皆様に心から敬意を表します」と丁寧な歓迎の挨拶をされた。

                  

 請願書を手渡し、トーチらが用意したパソコンやシートを使って日本の現状を説明し、第一、第二、第三原発の再点検と、第四原発輸入の再考を促した。居並ぶお偉方は皆身を乗り出すようにして話に聞き入っていた。第四原発現地の人々も、游首相を囲み、変わり果てた現地の海岸の写真を手に申し入れを行った。帰り際、また握手をして回る游首相の手を握りしめ、涙で訴える現地の人の姿が胸を打った。游首相が時間どおり退席した後も、柏崎市議たちや、現地の人々は原子力委員会の人々を囲んで、1時間あまりも要請を続けたのだった。

 翌3日、第一原発の再循環ポンプの損傷が発覚し、台湾に残ったトーチは再び議員たちに呼ばれて説明を繰り返したという。その後、若い台湾の活動家が彼に語ったという。「こんなひどいことが起こっているのに、どうして日本では大臣が責任を取って辞めないんだ。そうなれば、台湾でももっと事態の深刻さが伝わるのに」。
 その通りだ。私たちが国内での追求をもっと強めなければ、台湾への原発輸出は止められない。第10回NNAF台湾会議は、そのときまで私たちの中で終わることはできないのだ。(小木曽茂子)

エピローグ

 台湾で開かれるノーニュークス・アジア・フォーラムに参加する前、私はできる限りのことをやってみようと思った。そして、できるだけ第四原発現地・貢寮の人々に近づこうと思った。フライトを取り直して出席した記者会見からはじまって、用意したものをすべて出し尽くした。損傷隠蔽事件のプレゼン資料、特大新聞記事スクラップ、ボイコットうちわ、ボイコットシール、ボイコットカード、伍佰の歌まで。私はもうからっぽだ。

 公式スケジュールが終わったあと3日の夜になって、趙永清立法委員(国会議員)が4日の立法委員会での質問に損傷隠蔽問題を加えてくれることになった。質問する相手は、游行政院長。これにはタイミングよく3日の中国時報台北県版に、第一原発1号機定検中に再循環系配管に亀裂が見つかった、という記事がでたことも追い風となった。

 趙立法委員の事務所は立法院の目と鼻の先。事務所で質問の直前に打ち合わせした。「日本で廃止することになった原発はあるのか?」「いや、検査のため止まっているだけ」「政府関連で責任とってやめた人は?」「東電幹部はやめたけど役所は誰も」。
 どうも話がかみあわない。私がこの事件を強調すればするほど、その具体的な影響とのアンバランスを感じているのだ。考えてみれば当たり前かもしれない。他の国の政治の世界から日本を考えるなら、コトの大きさとは、テクニカルでもモラルでもなく、そのことが起こしたダメージの程度なのかもしれない。
 後で、GCAA(緑色公民行動連盟)の頼さんからもいわれた。「事態の重大さに比べて、日本での波紋が小さすぎることに驚いている。大臣が辞めるくらいの事態になってもおかしくないはずだ。そうなれば、台湾も人ごとではなくなるのだが」。

 立法院での20分ほどの質問時間で、2つの内容をしゃべる予定のところに、無理に一つ追加してもらったので5分足らずであったが、実に滔々と主張してくださった。演台の手前には、日本から持ってきた特大新聞記事スクラップが張ってある。いくつかの質問には行政院長がうなずいた。後で聞いたところでは、一度には無理だが、稼働中の原発を止めて調査することになるだろう、と趙立法委員は話してくれた。

 翌朝の記者会見には、貢寮からも楊貴英さんをはじめ、4人の方が来られた。ケタガラン原住民族の林さんも、第一原発からも来られて、趙永清、頼勁麟両立法委員で豪華メンバーである。が、ハプニングが起こった。台湾で話題沸騰であった政界セクハラ事件の当事者の記者会見が、同じ時間にすぐ隣で行われることになってしまったのだ。私たちの方は、結局TVは一局のみ、新聞記者もまばらでおとなしく終わった。が、突然、みんな(立法委員は除く)で隣の記者会見に割り込んでいった。あっという間に警備員に元の部屋に押し込まれてしまうが、プラカードを示して、叫び続ける。ふと気がつくと、となりのTVカメラが出てきて、みんなこっちを撮っている。しばらく押し問答が続いたあと、平和裡にお開きとなった。林さんがいたずらっ子の目をして笑っている。

 できるだけのことができたと思う。でもそのために、台湾の人々に近づいた分、その痛みも感じてしまう。私の小ささもよくわかった。台湾だからできること、台湾だからできないこと、そしてそのすべては結局、自分に問い直されてしまうのだ。
 塩寮にある抗日記念碑を最初に見たとき、その向こうにはなにも見えず、気配だけがあった。その次は小さなクレーンの頭だけが見えた。今回、何基ものクレーン車が動き回っているのが見える。抗日記念碑の向こうに二つ目の抗日記念碑がそびえ立つ姿に私はうなされて続けてきた。それはもう私だけの悪夢ではなく、現実になりつつある。支援者として海を渡ったつもりだった。しかし、私はまぎれもなく侵略者として帰ってきた。(とーち)


編集後記:「原発を輸出しないで」と台湾の人からいわれるのはつらいが、楊貴英さんに、「核電があってみなさんと知り合いになれました」といわれたときは、ほんとうにうれしく、同時にとほうもなく悲しかった。こんな気持ちは初めてだ。いつか福隆の浜で貢寮の人たちと宴会をやって、笑いたい(D)


ノーニュークス・アジアフォーラム通信  No.58(2002年10月) もくじ
                                        ー B5版 32ページー

●第10回ノーニュークス・アジアフォーラム(台湾)報告 
  開会あいさつ「核のないアジアの促成と世界の平和」(林義雄)
  各国報告より「台湾の原子力問題」(王塗發)
  第10回ノーニュークス・アジアフォーラム  ダイジェスト
  第10回ノーニュークス・アジアフォーラム共同声明
  游行政院長あて請願書
●タイからの近況報告(オンカラック研究炉・コバルト60訴訟)

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