ノーニュークス・アジアフォーラム通信 No.57 より

10年目を迎えたノーニュークス・アジアフォーラム

NNAFJ事務局


核も原発もないアジアをめざすノーニュークス・アジアフォーラムは、10年目を迎えた。
毎年各国持ち回りで開催されてきたフォーラムには、8〜10ヶ国・地域から集まり、情報の交換(日本からも数多くの報告を行なってきた)、経験の交流、共同の行動を積み重ねてきた。そして対等で緊密なネットワークをつくってきた。
私たちは、お互いに学びあい、お互いに励ましあってきた。
アジア各国の原発現地・原発予定地・核廃棄物処分場候補地の人々をはじめ、ぼうだいな人々が参加してつくってきたのだが、きわめて簡単にふりかえってみる。


★第1回:日本  1993年6月26日〜7月4日

世界は脱原発に向かい始めたが、アジア各国には多数の原発建設計画がある。
原発を売るためにそれを牽引しているのが日本だ。日本は毎年「アジア地域原子力協力国際会議」を開催(2000年以降は「アジア原子力協力フォーラム」と改称し各国持ち回りですることになった)。また、多数の研修生を受け入れるなどの技術協力を行ない、韓国・台湾とは毎年2国間で協力会議を開催、東南アジアにも毎年官民大規模ミッションを派遣している。

そこで、日本で第1回ノーニュークス・アジアフォーラムを開催した。フォーラム提唱者の金源植さんはいう「推進側は日本を中心に実に緊密な関係をもっている。アジアの民衆次元での連帯闘争が必要である」。
第1回フォーラムは1354名と177団体の賛同を得、各地合計で100名もの実行委員が汗を流して準備した。
国際会議ではアジア各国の参加者から、日本のプルトニウム政策や原発輸出政策に対する批判の声が上がった。「日本のプルトニウム政策はアジアの緊張を高める」と。

アジア各国からの参加者30名に7コースに別れてもらい、全国の原発現地など28ヶ所で集会を行った。
アジア各国では「日本では40基以上の原発が安全に運転されている。住民も賛成している」と喧伝されているから、アジア各国からの参加者に、「そうでない」たくさんの事実を知ってもらったことに意義があったと思う。
「最も印象が深かったのは各地で反原発運動をしている人々、たとえば女川の阿部さんのように30年間も原発と闘っている強い力です」(タイの参加者)。
「芦浜、南島町の漁民たちの闘い続ける姿勢、心意気に感動しました」(台湾の参加者)。
実に多くの出会いがあり、国境を越えたネットワークづくりの第一歩が踏み出された。




★第2回:韓国  1994年10月14〜21日 (日本からの参加:36名、以下同様)

韓国では軍事独裁の時代に4カ所(コリ・ヨングァン・ウォルソン・ウルチン)に原発が建設されてしまった。しかし、87年の大闘争以降の民主化運動を背景にして反原発運動も90年前後に非常に盛り上がり、力強い各地住民の実力闘争で原発新規立地も、核廃棄物処分場建設も許していない。

ソウルでの会議のなかでは、日本が朝鮮半島の非核化の障害になっていること、また原爆被害者と戦後補償問題など、当然ながら日本が批判された。また、学生集会もあり、日本の学生が連帯あいさつを行なった。

そして韓国をバスで一周。独立記念館見学。ヨングァンでは農民・漁民とともに原発へデモ、昨年のフォーラムに参加した後亡くなった魯淵業さんの墓参り。光州では民衆抗争の犠牲者の眠る望月洞参拝、アメリカ文化センター抗議行動。核廃棄物処分場建設反対闘争に勝利したコソン・チョンハで集会、原発現地のコリ・ウルチンでも抗議行動、集会。途中プサンの日本領事館に抗議行動をしたが、韓国の7名が警察に連行され、バスの一行も2時間半にわたって軟禁されるという事態があった。毎晩遅くまで会議や交流会、ハードなノーニュークス・アジア「キャラバン」であったが、力強い実力闘争をたたかってきた各地住民たちとの出会いの連続で、疲れているヒマはなかった。

韓国でのフォーラムは、韓国各地の運動団体、住民団体の横のつながりを強める機会ともなった。その後、11月に韓国の全国ネットワーク「核のない社会のための全国反核運動本部」が発足。
翌95年は、クロプ島・トクチョク島の核廃棄物処分場建設反対闘争に勝利した。




★第3回:台湾  1995年9月2日〜6日 (31名)

第3回フォーラムでは、第四原発反対とフランス核実験反対をつなぐ壮大な3万人デモが行われた。デモは「終結核武」「拒絶核電」と叫び、解散時には、目抜き通りの交差点のどまん中で核兵器と原発の模型を燃やした。

台湾では国民党軍時独裁の38年間におよぶ戒厳令の下、いっさい反対・批判の声をあげられないなかで、3カ所に2基ずつ計6基の原発が建設された。87年に戒厳令が解除され、民主化闘争が高揚したが、その大きな軸が第四原発反対であった。民主化闘争の中から誕生した民進党も原発反対を綱領とし、国会でも第四原発建設の是非は逆転に次ぐ逆転でやり合ってきた。第四原発問題は台湾の最大の政治課題となっていた。

台北での会議では、ドラム缶10万本の核廃棄物を持ち込まれている蘭ゆ島の先住民代表が「島を核廃棄物の捨て場にするな」と訴えると、タヒチからの参加者が壇上にかけ上がり握手を求めた。彼はフランスの植民地支配からの解放を求めているのだ。

フォーラム参加者は、蘭ゆ島、第一・第二原発、さらに、放射能汚染ビル(原発から出た鉄材が原因、10000人以上の被曝が確認されている)、放射能汚染道路、大漢渓の放射能汚染地域(原子力研究所で核兵器を秘密開発していたがアメリカに封鎖され、燃料棒取り出しの際に水素爆発を起こしプルトニウムなどの放射能が多量にもれた)の視察もした。

そして、第四原発「敷地内」デモ、94年の住民投票で96%が原発建設に反対した貢寮郷の住民たちとの交流集会でフォーラムをしめくくった。

蘭ゆ島の住民はその後、核廃棄物の追加搬入を実力で阻止。10万本の廃棄物を2002年末までに島から出させることを台湾電力に約束させた。
民生マンション放射能汚染問題については、2002年3月25日、政府が住民たちに謝罪、賠償金を支払うことになった。



★第4回:インドネシア  1996年7月29日〜8月2日 (15名)

「原発というのは民主主義の対極にあるものだ」とよく言われる。
アジアの他の国と同様、インドネシアでも、原発は軍事独裁・開発独裁の象徴であった。
90年代、スハルト軍事独裁が初のムリヤ原発(ジャワ島中部、700万Kw)を計画した。非常に困難な状況の中で反原発運動が行なわれていたが、反原発運動すなわち民主化運動であった。

関西電力の子会社が事前調査(91〜96年)を行っており、三菱が輸出する可能性が高かったので、日本でも「ストップ原発輸出キャンペーン」として原発輸出反対運動を行った(93〜97年)。ミレ国会議員(後に国会で原子力法案にたったひとりで反対した)など原発に反対する人々を毎年招聘し世論に訴え、署名運動を展開、日本政府や国会に対して働きかけた。また、インドネシアをたびたび訪れさまざまな情報を伝えた。

集会・デモが自由にできず、弾圧される当時の状況で、フォーラムを開催できたというそのことだけで大変な意義があった。
まさにフォーラム直前の7月27日に、軍部の謀略によって民主党本部が襲撃され、100名以上が殺され、「暴動」も起こり、緊迫していた。そのようななかで、ジャカルタ・ソロ・ジョクジャカルタでフォーラムは敢行された。予定地バロン村にも行ったが、軍と警察の監視が厳しく住民たちとは接触できなかった。

フォーラムでは、これまで反原発運動の中心だったジャワ島はもちろん、スマトラ・ロンボク・カリマンタン・スラウェシなど各島の人々も初めて一同に会して、反原発全国ネットワークが誕生した。

翌97年、原子力法は制定されたが、原発建設は延期となった。そして、98年、学生を先頭にした民衆のたたかいで30年以上続いたスハルト軍事独裁は崩壊し、原発計画も立ち消えとなった。




★第5回:フィリピン  1997年9月1日〜6日 (22名)

利権と汚職のマルコス軍事独裁の下で、わいろと欠陥のバタアン原発が建設された。バタアン民衆のたたかいは70年代後半は過酷な弾圧を受けたが、80年代に稼動を阻止する運動が展開され、85年には「反マルコス・反原発」で3日間のゼネストが打ち抜かれた。5万人のバタアン民衆が市街を埋め尽くし、軍の戦車や装甲車に立ち向かった。これは翌86年2月のピープルパワーの爆発につながり、マルコスを倒した。反原発闘争はまさに民主化闘争と結合していたのだ。アキノ政権になって直後にバタアン原発は凍結され、フィリピン唯一のバタアン原発は完成はしたけれども動かさないことになった。さらに91〜92年、フィリピン民衆は非核憲法で米軍基地を追い出した。

しかしフィリピン政府は、92年以降バタアン原発の再開を企て、さらに96年にはルソン・ミンドロ・ネグロス・ミンダナオの各島の10か所の原発建設計画を公表した。

97年のフォーラムは、マニラでの会議、原子力研究所視察の後、バタアン原発現地に向かった。バスは夜中の11時半に着いたのに、多くの住民たちが「ノーニュークス! インタナショナル・ソリダリティ!」と手拍子で出迎えてくれた。そして翌日の2000人のたいまつデモ。バタアン民衆の情熱と確信と誇りは、海外参加者とフィリピン各島からの参加者をおおいに励ました。
フィリピンの人々は、原発輸出を「新たな侵略」と規定していた。

翌98年、政府はもう原発はつくらないことを最終的に決定した。




★第6回:タイ  1998年10月27日〜11月1日 (10名)

96年、タイ政府は「21人委員会」を発足、原発建設計画を開始。97〜98年、タイ電力公社(EGAT)は、マスコミを使って原発の宣伝をしながら、タイ南部の3か所を候補地とし調査を完了、用地取得に着手した。

フォーラムを主催したのは「持続可能な代替エネルギー・プロジェクト(AEPS)」というタイの反原発NGO。バンコクでの2日間のシンポジウムでは再生可能エネルギーについても議論がなされた。

3日目はバスで600キロ走り、タイ南部のチュンポーンへ。炉心の予定地という美しい海辺の寺院で集会。これは、地元での初めての原発反対集会でもあった。200名の地元の人々に、各国の参加者が原発の危険性や運動の経験を話す。最後に地元の女性がいった。「どんなにされても、私の土地は売らない」。

翌日行ったスラーターニーも予定地だ。ここでの集会でも、地元のNGOや住民たちと熱心な討論を行った。チュンポーンもスラーターニーも、日本に輸入されるエビの養殖池のためマングローブの海岸林が破壊された地域だ。

そして、バンコク北東60キロのオンカラックへ。1万Kwの研究炉の建設予定地だ。96年に米国のGA社が落札、設計を担当する。原子炉本体を製造するのは日立。静かな農村のおばあさんやおじいさんたちが、AEPSの仲間たちとともに反対している。

2000年2月にバンコク近郊でコバルト被曝事故が発生。使用済みの医療用放射線照射装置がくず鉄業者に持ち込まれたのだ。3名が被曝死したこの事故はタイの人々に大きな衝撃を与えた。3月、オンカラックの住民たち700名が政府に押しかけ、大臣に「地元の同意なしに研究炉建設はしない」と約束させた。
南部の原発計画も、オンカラックの研究炉計画も、現在はストップしている。




★第7回:インド  1999年11月21日〜26日 (7名)

ウラン鉱山から再処理工場、核実験場まであらゆる核施設を持つインドでのフォーラムは、国内唯一のウラン鉱山であるジャドゥゴダからの参加者を得て、また各地で巨大開発に抗して闘う人々との交流があったことから、議論のテーマが原発のみならず再生可能エネルギーをはじめ森林保護やダム反対運動などの実践的な取り組みにまで及び非常に有意義なものだった。

また、パキスタンとの問題、中東の核の問題が議論の中に登場し、インドがおかれている地理的、政治的状況を実感することとなった。

フィールドトリップでカイガ原発現地を訪れたメンバーは、冷却水を取るためのダム湖で半分沈みかけた村落に住み続ける人々や強制的に立ち退かされた人々と出会い、意見を交換した。

またフォーラムの最後にスピーチを行ったジャドゥゴダのガンシャム・ビルリさんからは、ジャドゥゴダウラン鉱山の汚染のために苦しむ地元の惨状を訴えつつも、「私たちは世界各地で苦しむ放射能被害者のために、具体的な行動を起こさなければならない」と力強い問題提起がなされ、感動的な幕切れとなった。




★第8回:日本  2000年 7月9日〜16日

東京ではシンポジウムのほかに、日立本社抗議行動、台湾への原発輸出問題を中心にした政府交渉、通産省前でのプルサーマル抗議行動などが行われた。

東海村でのシンポでは、JCO事故の生々しい報告、タイのコバルト被曝事故のスライド、そしてマレーシア・ブキメラ村の三菱化成による放射能被害の報告も行われた。

福島では核のゴミとMOXをテーマにシンポがもたれた。福島、青森、韓国、台湾、オーストラリアから、たたかいの現状が紹介され、討論も充実した。

女性フォーラムの後、巻町を訪問。予定地で地元の人々が出迎えてくれた。「新エネルギーの時代へ」と銘打った柏崎シンポも盛況で、柏崎と同型のABWRが輸出されようとしている台湾から切実なアピールも受けた。

じょんのび村での国際会議では、北海道から鹿児島まで全国各地からの報告もなされた。1週間行動をともにすれば、古くからの同志のようだ。新潟の人たちのもてなしによるさよならパーティは各国の歌や踊りで盛り上がった。

日本各地で原発反対運動を担う人々と出会った韓国の若者ユン・キドンさんが、帰国後に送ってくれた手紙には次のように書かれていた。
「なにがあなた方をそんなに強くしたか考えてみます。新潟でおみやげにもらった手ぬぐいに書かれていた『原発廃止これ人の道』のことばに、私は回答を見つけました。みなさんは、反核の道が人間になる道だと感じたから、あきらめず、この時代を根強くがんばってきたのでしょう。人間として生きる道を、みなさんと共に歩きたいです」。




★第9回:韓国  2001年9月9日〜14日 (21名)

第8回フォーラムで、次回開催国として韓国が立候補した理由は、2001年の夏が核廃棄物処分場反対闘争の山場になるのではないかという予想からであった。

 この10年間、推進側は、核廃棄物処分場建設地を強引に選定しては、アンミョン島、トクチョク島など各地住民の激烈な反対闘争を招き、9戦9敗してきた。そこで推進側は、250億円の「地域支援金」をエサにした公募方式に切りかえ、2001年6月末を締め切りとした。誘致委員会の工作が活発だったのは全羅南道の霊光、康津、珍島、全羅北道の高敞だったが、いずれの自治体も反対運動により誘致にいたらなかった。推進側は大統領選挙後の2003年、再び強引な選定を行ってくるのではないかといわれている。だからフォーラムの時は核廃棄場建設反対大闘争と重なるということにはならなかった。

現在韓国では4カ所に計16基の原発が稼動中だ。霊光(ヨングァン)と蔚珍(ウルチン)では2基ずつ建設中。計画中は16基で、世界的に見てもとんでもない。

 フォーラムはソウルでの会議、街頭アクションの後、霊光(ヨングァン)原発現地へ。ここは核廃棄物処分場の最有力候補地ともいわれている。「核廃棄物決死反対・霊光郡民文化マダン」が開かれ、歌やパンソリやサムルノリがあって、いい雰囲気だった。全羅南道の中心地・光州からもたくさんの人がきていた。都市部の人間が現地の人といかに連帯できるかが世界共通の課題だと思う。現地の人たちに原発との闘いを任せっきりにしてはいけない。

 近くで活断層が発見されているのに増設計画がある月城(ウォルソン)原発前では800名で抗議集会。蔚山(ウルサン)では500名で力強いデモを行った。蔚山では多くの市会議員や現代自動車労組などの労働者が、市民や現地の住民と共に反原発を闘っている。

フォーラムの直後、霊光では5・6号機核燃料装填阻止の座り込みが行われ、蔚山の原発予定地では、住民たちが環境影響評価説明会を中止させた。また、蔚珍(ウルチン)からフォーラムに参加していた人が中心となって、蔚珍原発7・8・9・10号基建設反対闘争が11月に盛り上がった。現地の人たちと励ましあうことができたフォーラムだったといえる。

img258.jpg  ウォルソン原発前の集会


★第10回:台湾  2002年9月27日〜10月2日    参加しよう!  

台湾では2000年3月に「第四原発中止」を公約とした陳水扁政権が誕生。6月からの推進・反対同数の第四原発再評価委員会の論戦は毎週テレビ中継もされ、その結論をふまえ10月に行政院長(首相)が建設中止を発表。

しかし、その後数か月間、台湾の政局はゴタゴタ(混迷)を極めた。50年にわたって台湾を支配してきた国民党らが、原発問題を陳政権攻撃の道具とし、立法委員の数をたよりにゴネたのだ。
それで11月12日には、10万人反核デモが行われ、「陳水扁は攻撃に負けずに原発中止決定を守れ」と訴えた。

立法院では原発の是非についてのまともな議論はなかった。国民党は一方で「電力が足りなくなる」といいながら「第一第二第三原発を廃炉にしてもいいから第四は建設させろ」などという始末。第四原発建設にからむ国民党政治家の汚職が背後にあることは誰の目にも明らかになった。が、2001年1月末には立法院が建設継続を求める決議を採択、結局2月14日に陳総統が妥協し建設再開となった。こんなものは「敗北」ではない。

にもかかわらず、「待ってました」と日本政府は2月27日に輸出許可を出した。
日本からはまだ原子炉は運ばれていない。台湾では引き続き闘っている。あきらめていない。今年1月26日、現地・貢寮郷での郷長選挙で、反核自救会の仲間が郷長になるという快挙もあった。
第四原発は必ず止められると思う。台湾の人たちの闘いと連携して、なんとしても止めたい。稼働前、いや、東芝・日立の原子炉が上陸する前に。

第10回ノーニュークス・アジアフォーラムを、第四原発中止につなげたい。

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