―反原発アジア連帯―

放射能の被害者にも
      加害者にもなりたくない


  佐藤大介(ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン事務局)

● ノーニュークス・アジアフォーラムとは

 チェルノブイリ事故以降、世界は脱原発に向かい始めたが、アジア各国は原発建設計画を推進した。原発を売るために、それを牽引してきたのが日本だ。日本は毎年「アジア地域原子力協力国際会議」を開催(2000年以降は「アジア原子力協力フォーラム」と改称し各国持ち回りですることになった)、また、多数の研修生を受け入れるなどの技術協力を行ない、韓国・台湾とは毎年2国間で協力会議を開催、東南アジアにも毎年官民大規模ミッションを派遣してきた。

 そこで1993年に日本で「核も原発もないアジアをめざす」ノーニュークス・アジアフォーラムを開催した。フォーラム提唱者の金源植さんはいった。「推進側は日本を中心に実に緊密な関係をもっている。アジアの民衆次元での連帯闘争が必要である」。フォーラムは1354名と177団体の賛同を得、各地合計で100名もの実行委員が汗を流して準備した。国際会議ではアジア各国の参加者から、日本のプルトニウム政策や原発輸出政策に対する批判の声が上がった。「日本のプルトニウム政策はアジアの緊張を高める」と。アジア各国からの参加者30名に7コースに別れてもらい、全国の原発現地など28ヶ所で集会を行った。アジア各国では「日本では40基以上の原発が安全に運転されている。住民も賛成している」と喧伝されているから、アジア各国からの参加者に、「そうでない」たくさんの事実を知ってもらったことに意義があったと思う。実に多くの出会いがあり、国境を越えたネットワークづくりの第一歩が踏み出された。

 以降毎年のように、各国持ち回りで開催されてきたフォーラムには、8〜10ヶ国・地域から集まり、情報の交換(日本からも数多くの報告を行なってきた)、経験の交流、共同の行動を積み重ねてきた。そして対等で緊密なネットワークをつくってきた。アジア各国の原発現地・原発予定地・核廃棄物処分場候補地の人々をはじめ、ぼう大な人々が参加し、お互いに学びあい、お互いに励ましあってきた。フォーラムのとき以外にも、連絡を取り合って情報を交換したり、ひんぱんに、いったりきたりしている。「アジアへ反原発運動が輸出されている」と言う推進派もいる。

 タイ、フィリピン、インド、マレーシア、中国、オーストラリア、ロシアなどの原発事情と反原発運動、それらと日本の関わりについても紹介したいのだが、紙数の関係もあり、韓国、インドネシア、台湾についてのみ述べることにする。

● 韓国との連帯

 韓国では軍事独裁の時代に4カ所(コリ・ヨングァン・ウォルソン・ウルチン)に原発が建設されてしまった。しかし、1987年の大闘争以降の民主化運動を背景にして反原発運動も開始され、力強い各地住民の実力闘争で原発新規立地も、核廃棄物処分場建設も許してこなかった(増設は強行されてしまっており、現在20基が稼動)。

 1994年の第2回フォーラム(日本からは36名参加)では韓国をバスで一周。ヨングァンでは農民・漁民とともに原発へデモ。クァンジュ(光州)では民衆抗争の犠牲者の墓地参拝、アメリカ文化センター抗議行動。核廃棄物処分場建設反対闘争に勝利したコソン・チョンハで集会。原発現地のコリ・ウルチンでも抗議行動、集会。力強い実力闘争をたたかってきた各地住民たちとの出会いの連続だった。フォーラムは、韓国各地の運動団体、住民団体の横のつながりを強める機会ともなった。直後に、全国ネットワーク「核のない社会のための全国反核運動本部」が発足した。

 この十数年間、推進側は、核廃棄物処分場建設地を強引に選定しては、アンミョン島、トクチョク島など各地住民の激烈な反対闘争を招き、9戦9敗してきた。

 そこで推進側は、250億円の「地域支援金」をエサにした公募方式に切りかえ、2001年6月末をしめ切りとした。夏が核廃棄物処分場反対闘争の山場になるのではないかという予想から私たちは韓国で第9回フォーラムを行った。誘致委員会の工作が活発だったのは全羅南道のヨングァン、カンジン、チンド、全羅北道のコチャンだったが、いずれの自治体も反対運動により誘致にいたらなかった。フォーラムはソウルでの会議、街頭アクションの後、ヨングァン原発現地へ。「核廃棄場決死反対・ヨングァン郡民文化マダン」が開かれた。増設計画があるウォルソン原発前では800名で抗議集会。ウルサンでは500名で力強いデモを行った。

 10戦目は全羅北道プアンだった。03年7月突然、郡長が核廃棄物処分場の誘致表明をして以来、プアン郡民は、常駐した8000人の戦闘警察(機動隊)と対峙しながら、街のメインストリートの路上を「反核民主広場」と名づけ、2000〜3000人のキャンドル集会を毎晩、200日間も続けた。1〜2万人規模の集会やデモも10回以上行った。11月には、プアンで「反核廃棄物処分場・国際フォーラム」も開催した。

 「プアンは闘った。農民は田畑をとびだしてアスファルトをかけずりまわり、漁民は網を捨てて海上デモをくり広げた。商人は店を閉めて反核民主広場を守った。運転手たちはタクシーを放置して高速道路を遮断した。母は剃髪で、学生たちは登校拒否で、ハルモニはろうそくのあかりを持って、医者たちは白衣を着て、立ち上がった。先生が国会前で108拝をした。神父が、教務が、牧師が、僧侶が、1ヶ月を越える断食をした。プアンはひとつであった。老若男女、能力の有無の区分がなかった。持てる者と持たざる者の区別もなかった。私たちが持てる全てのものを捧げて闘争した」(『プアン宣言』より)

 そして、04年2月14日、プアン郡民は、核廃棄物処分場建設の是非を問う自主住民投票を成功させ、勝利した。有権者52000人のうち、72%の住民が投票所に足を運び、そのうち92%が建設反対であった。住民投票の直前には、日本から応援カンパを集め、同じく住民投票で原発建設計画を白紙撤回させた巻町の仲間にもっていってもらった。プアンの闘争では、ほとんどすべての住民が自ら立ち上がり、全ての一人ひとりが主人公であった。プアンの人々は、真の民主主義を描き出した。


吹雪の中でもキャンドル集会

 しかし、この3年間推進派は、韓国各地から毎年平均約1000人を六ヶ所村への「視察」旅行に連れて行き、チャンスをうかがった。六ヶ所村や青森の仲間もたびたび韓国を訪れ、核廃棄場の危険を訴えたが、とうとう、05年11月2日、キョンジュ(慶州)で推進側が主導する住民投票が行われ、「賛成多数」となり、候補地として手続きが進められることになってしまった。この住民投票は、公務員が不在者投票を強要したり、金銭や酒宴を提供したり、代筆で不在者申告書を大量に作成した事例まであり、不在者投票が38%もあるという異常で不正なものであった。着工は08年の予定とされている。たたかいはこれからだ。

● ストップ! インドネシアへの原発輸出

 「原発というのは民主主義の対極にあるものだ」とよく言われる。アジアの他の国と同様、インドネシアでも原発は軍事独裁・開発独裁の象徴であった。90年代、スハルト軍事独裁が初のムリヤ原発(ジャワ島中部、700万kW)を計画した。非常に困難な状況の中で反原発運動が行なわれていたが、反原発運動すなわち民主化運動であった。

 関西電力の子会社が事前調査(91〜96年)を行っており、三菱が輸出する可能性が高かったので、日本でも「ストップ原発輸出キャンペーン」として原発輸出反対運動を行った(93〜97年)。ミレ国会議員(後に国会で原子力法案にたったひとりで反対した)など原発に反対する人々を毎年招聘し世論に訴え、署名運動を展開、日本政府や国会に対して働きかけた。また、インドネシアをたびたび訪れ、原発の危険性などさまざまな情報を伝えた。太陽光発電をインドネシアで広める活動を続けている仲間もいる。

 96年の第4回ノーニュークス・アジアフォーラムはインドネシアで開催された。集会・デモが自由にできず弾圧される当時の状況で、フォーラムを開催できたというそのことだけで大変な意義があった。

 まさにフォーラム前日の7月27日に、軍部の謀略によって民主党本部が襲撃され、100名以上が殺され、「暴動」も起こり、緊迫していた。そのようななかで、ジャカルタ・ソロ・ジョクジャカルタでフォーラムは敢行された。予定地ジュパラにも行ったが、軍と警察の監視が厳しく住民たちとは接触できなかった。

 同年10月「環太平洋原子力会議」という会議が、あろうことか震災から間もない神戸で開かれ、アジアへの原発輸出が話し合われた。これに対抗する「市民による環太平洋反原子力会議」を開いたが、インドネシアから参加したティティさんはジュリアという偽名で、「原発建設を実現するために政府は、予定地の住民や反原発活動家に対する多くの弾圧・脅しを行なっています」と報告した。

 第4回フォーラムでは、これまで反原発運動の中心だったジャワ島はもちろん、スマトラ・ロンボク・カリマンタン・スラウェシなど各島の人々も初めて一同に会して、反原発全国ネットワークが誕生した。

 翌97年に原子力法が制定されてしまったが、原発建設は延期となった。そして、98年、学生を先頭にした民衆のたたかいで30年以上続いたスハルト軍事独裁は崩壊し、原発計画も立ち消えとなった。


予定地ジュパラの子どもたち

 あれから約10年。今年、ジャワ島での原発建設計画が復活したもようだ。インドネシアの仲間たちとの連携を再び活発化させなければ・・・・。

● 台湾第四原発をとめよう!

 95年台湾での第3回フォーラム(日本からは32名参加)では、第四原発反対とフランス核実験反対をつなぐ壮大な3万人デモが行われた。デモは「終結核武」「拒絶核電」と叫び、解散時には、目抜き通りの交差点のどまん中で核兵器と原発の模型を燃やした。

 台湾では国民党軍事独裁の38年間におよぶ戒厳令の下、いっさい反対・批判の声をあげられないなかで、3カ所に2基ずつ計6基の原発が建設された。87年に戒厳令が解除され、民主化闘争が高揚したが、その大きな軸が第四原発反対であった。民主化闘争の中から誕生した民進党も原発反対を綱領とし、国会でも第四原発建設の是非は逆転に次ぐ逆転でやり合ってきた。第四原発問題は台湾の最大の政治課題となっていた。

 台北での会議では、ドラム缶10万本の核廃棄物を持ち込まれているランユ島の先住民族代表が「島を核廃棄物の捨て場にするな」と訴えると、タヒチからの参加者が壇上にかけ上がり握手を求めた。彼は核実験だけでなくフランスの植民地支配からの解放を求めているのだ。フォーラム参加者は、ランユ島、第一・第二原発、さらに、放射能汚染ビル(原発から出た鉄材が原因、10000人以上の被曝が確認されている)の視察もした。そして、第四原発「敷地内」デモ、94年の住民投票で96%が原発建設に反対した現地・貢寮(コンリャオ)郷の住民たちとの交流集会でフォーラムをしめくくった。

 ランユ島の住民は翌96年、核廃棄物の追加搬入を実力で阻止。10万本の廃棄物を2002年末までに島から出させることを台湾電力に約束させた(06年現在、実現していないが)。

 しかし、同じ96年に第四原発の入札が行われてしまい、ゼネラルエレクトリック社が落札。日立と東芝が原子炉を製造することになる。以来、日本と台湾の間で、実に多くの人々が行き来した。同じABWR(新沸騰水型原子炉)がある柏崎からも何度も市会議員たちが訪台し記者会見などでABWRの欠点を伝えた。

 日本からの初の本格的原発輸出に対し、署名運動、不買運動、集会、国会での質問、株主総会参加、政府との交渉など、さまざまな反対運動を展開したが、力は足りなかった。

住民投票で勝利しても、地方自治体が明確に反対しても建設計画はとまらず(他の国では考えられない)、99年に着工されてしまったが、翌2000年、50年以上続いた国民党独裁は終り、「第四原発中止」を公約とした陳水扁政権が誕生。推進・反対同数の「第四原発再検討委員会」の3ヶ月にわたる論戦は毎週テレビ中継もされ、その結論をふまえ10月に行政院長(首相)が建設中止を発表した。しかし、その後数か月間、原発建設に利権をもつ国民党の攻撃によって台湾の政局は混迷を極め、2001年1月末には国民党が多数を占める国会で建設継続を求める決議が採択され、結局2月14日に陳総統が妥協し建設再開となった。「待ってました」と日本政府は2月27日に輸出許可を出した。

 台湾での第10回フォーラム(02年)では、東電の事故隠しスキャンダルを報告、「同じ沸騰水型の台湾の原発もひび割れる。第四原発もひび割れる」。20名の海外参加者(代表)は首相とも会見、原発の危険を強く訴えた。

 03年に日立の1号機原子炉が、04年に東芝の2号機原子炉が、輸出されてしまった。現地貢寮郷の反核自救会は声明で次のようにいう。「日本によるこのような『公害輸出』という行為に強く抗議する」「日本が台湾に原発を輸出することは、私たちの心の中に恨みと恐怖を輸出することを意味する。あるいは悲劇を輸出するともいえる・・・・その反面、この険しい原発反対の道をここまで歩んでこれたのも、大勢の日本友人の声援と激励があったからである」。


映画「こんにちは貢寮」より、海上で日の丸原発の模型を燃やす(1999)

 建設工事は大幅に遅れている。当初は2004年に完成予定だったが、現在は2010年完成予定といわれている。貢寮郷の住民たちはあきらめていない。

 05年末、台湾から日本にメッセージが届いた。新鋭ドキュメンタリー作家チェ・スーシンが、貢寮に住み込み、6年の歳月をかけて完成させた作品、映画「こんにちは貢寮」だ。激動の政治に翻弄された貢寮の人々・・・・。スーシンは、ひたすら貢寮の人々を見つめる。貢寮の人々の思い、怒り、悲しみ、願いを映し出す。彼女は言う。「日本は原発の輸出国であるので、この貢寮の話を紹介することを通じて、少しでも皆様に関心を寄せてもらえれば幸いです」

 貢寮郷・反核自救会の呉文通(ゴ・ブントン)会長やチェ・スーシン監督らも来日し、これまで、大阪、東京、新潟、柏崎、北九州・下関・祝島・広島で「こんにちは貢寮」上映と現地報告を聞く集いを開催した。圧巻は、なんといっても祝島だった。公民館に集まってくれた約100名(過半数は女性)の人々は、映画の中の、何十隻もの漁船を繰り出すシーンや、住民が電力と言い争うシーン、役人に抗議するシーンなどを見て、どよめき、「そう、そう」「おんなじじゃね」と。同じ24年間を、同じように苦労して闘ってきたのだ。

 呉文通会長は言う。「祝島は貢寮にそっくりです。祝島のみなさんにお会いして、とても励まされました。この映画のおかげで来ることができました。本当にうれしいです。とめるまで闘います。日本最後といわれる上関原発、台湾最後の第四原発、どちらもとめましょう!」


 以上でわかるとおり、アジア各国での反原発運動は、民主主義のためのたたかいでもある。核も原発もないアジアは、民衆が主人公になるアジアだ。「反原発アジア連帯」を発展させていこう。

 自然エネルギーが原発にとってかわり、エネルギー資源の取り合いもせず、戦争も基地もない、強者も弱者もなく、差別も抑圧もない、世界中の人々が仲良く手をつないで暮らす地球、子どもたちが、飢えず、怖れず、よく笑う地球。わたしたちの夢だ。

                                「アジェンダ」14号より

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