映画「こんにちは貢寮」(日本語字幕)DVD 、好評発売中!
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口座名「ノーニュークス・アジアフォーラム」

ドキュメンタリー映画:こんにちは貢寮 プロモーションページ
http://www.SelectOurFuture.org/gongliao/

              ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.77より
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「悲しい1003事件では、林さんが自首をして、いまだ刑に服しているというのを聞いて胸が熱くなりました。そして最後の、住民が林さんを迎えるシーンでは私もそこにいるかのような臨場感をもらい、ジーンとくるものがありました」

「山口県に住んでいるのに、上関の原発設置に反対したりとか、行動していない自分が恥ずかしくなりました」

「日本人は貢寮での問題を他人事と思わず、自分の問題と考えるべきだと思います」                               
                             山口県の学生の感想
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ひとりでも多くの日本の人に見てほしい

チェ・スーシン


なぜ、この人たちは十数年間もがんばってきて、これからもがんばっていこうとしているのか。それを知りたい気持ちから通い始めました。最初は、週に1回か2回、貢寮に行きました。その後、それではなかなかつかめないので、現地に家を借りました。撮影をするうちに、原発に反対してきた人たちの「負けない」という気持ちが伝わってきました。

年配の人が多いですが、自分たちのためだけにやっているのではなく、未来の世代に受け継ごうとしているのです。

彼らは田舎の素朴なおじいちゃん、おばあちゃんだったのに、この原発反対運動の過程で、大統領であれ国会議員であれ、面と向かって堂々と発言できるようになりました。



この映画を作ってきた6年間で、多くの方が亡くなっていきました。そうした人々の最後の場面をカメラに収めました。そのとき、とくに、彼らの原発反対の意志を強く感じるのです。

元自救会長の江春和さんも病気で倒れましたが、最後の段階で、「原発反対に自分の人生を費やしたから悔いはない。その思いを源さんに伝えたい」と言っていたのが強く印象に残っています。たとえ第四原発は止められなくても、それ以上は作らない、第五、第六は作らないと宣言されました。住民の反対運動によって、原発推進という大きな流れを止めることができました。運動によって政策を変えることができたのです。それだけでも達成感があるのです。

「あなたが環境保護に熱心だから、この映画を作ったのか」と、よく聞かれますが、そうではなく、これを作りながら、その過程で、こういうものを作るのが私の人生の歩みだと決心がついたのです。自分の人生のなかで、これがターニングポイントになりました。

貢寮はこれまでずっと、どのメディアからも受け入れられずにきました。台湾の人々はいまだに、テレビで扱う内容は公共の福祉に資するものだと信じています。
原発に反対であれ支持であれ、現地の生の声に耳を澄ますべきではないかと思う。この現地の声を聞いた上で、判断してほしい。私よりさらに若い人たちに伝えたい。そう願って、台湾全土で50回以上の上映会を行いました。

どうして彼らにノーといえる権利がないのか? それを言い続けたい。

原発を拒否する彼らの意志を伝え続けたい。日本でもそれを訴え続けたい。

今、台湾の反原発運動はもっとも困難な時期にあるといえます。第四原発はすでに建設が50%進んでいます。民進党が政権をとり、「非核家園」政策が打ち出されたものの、エネルギー政策はまだ変わっていないのです。

第四原発の当初の予算は1700億元(約6000億円)でしたが、次の国会で追加予算1000億元が要求される予定です。台湾では発電の容量は足りているのです。こんな莫大なお金をかけて原発を作る必要性はありません。

この映画は今年4月以降、台湾全土で50回以上の上映会を行い、映画のDVDは2000枚が売れました。そして、韓国、カナダ、香港にも上映会に招かれました。

絵葉書に、貢寮の人々への励ましのメッセージを書いてもらっていますが、すでに貢寮へ1300通以上が届きました。

ひとりでも多くの日本の人に見てほしいと思い、1ヶ月間たっぷり作業して日本語字幕版DVDをつくり、とりあえず200枚をかついで持って来ました。

今回、大阪、東京、新潟、柏崎、山口で上映会を開催していただき、貢寮への励ましの葉書もたくさん書いていただきました。

貢寮の人々の声が伝わったように思います。とくに日本の原発現地で20年、30年、貢寮の人々と同じ道を歩いてきた人たちは、強く共鳴してくれました。本当にうれしかったです。

各地で居酒屋交流会をしていただきました。本音でじっくり話ができていいですね。台湾にはない習慣です。和気あいあいとした中でも、真剣な意見交換ができました。人生をかけて地道に反原発運動や社会運動をしてきた先輩たちの意見はとても勉強になりました。

世界の反原発・反核運動が、もっとつながっていけたらと思います。

この先、貢寮の町がどうなっていくのか、見つめ続けていきたいです。貢寮の人々を撮り続けます。(談)


反核だけではない

頼偉傑
(元緑色公民行動連盟事務局長)

そうです。彼らはまだ頑張ってる。

その日(2000年)、行政院が突然に第四原発建設中止を発表し、スーシンと車を飛ばして貢寮へ。心の中はなぜか不安だった。塩寮反核自救会の呉文通会長はお酒が苦手だが、その夜、隣の仲間の家で泥酔した。深夜になると、僕は彼と涼風のなかで閑談を交わした。「第四原発は止まったが、この記憶もまもなく消え去るだろう。工事中止は莫大な利益を阻んだと分かるだろう。もしかしたら、これからはヤクザの連中の出番かも」呉さんが鬱陶しい口調で言った。その後の第四原発の展開は周知の通りだ。だが、その夜更けの二人の会話は、今も僕の胸に響く。自救会長って、ここまでやるものかと、初めて知った。

 マスコミの対応もひどかった。第四原発復活の声が聞こえた途端、「反核団体の反応はなぜ鈍いのか、もう放棄したのか」と叩いた。また、こちらが抗議のデモを繰り出すと、「経済の不況に拍車するつもりか」と無実の罪を着せた。

もちろん、関心のある人も大勢いて、あれこれと意見を提供した。けれども、貢寮のひとびとは誰よりもよく知っている、第四原発建設というシナリオの舞台裏に、政党の悪質な闘争と、アメリカや日本の企業の利益の絡みが潜んでいることを。

自救会はあらゆる手を打った。あなたの想像以上のことをここまでやってきた。たとえば、彼らは自腹を切って、20名以上が原発輸出国の日本まで足を運んだ。日立、東芝、三菱などの本社ビル前に抗議の声を高く叫び上げた。これら年配の方の中に、初めて出国の人も少なくない。そして、これらの原発企業に対する「不買運動」を呼びかけるなど、日本国内の反響も呼んだ。

佐藤さんのように17回も貢寮を訪れた日本人もいる。ある日、佐藤さん一家とともに自救会の楊貴英さん宅を訪ねたときのことはよく覚えている。原発反対に関する意見交換のさなか、佐藤家のちびっこの両足のアトピー症状が彼女の目にとまった。結局、翌朝に山からハーブを取ってきて、こまめに切ったり擂ったり、ハーブ薬を作って、ちびっこの両足にぬった。貢寮の人々は「日の丸」も「星条旗」も焼き払ったが、民族や国籍を超えた人間に対するぬくもりは、ひたすら人の心を打つ。



 第四原発の反対により、大勢の人々の生命の航跡は交錯した。僕たちは身近な距離で彼らに伴い、見守ってきた。その意味で、僕たちは恵まれたともいうべきだと思う。一コマ一コマ、人々の心を動かす人生劇を目の前にして、「自分はなんと運のいいやつだ」といつも思った。だが、一人一人反核の英雄が人生の幕を閉じるのを見て、なんともやりきれない思いだった。

スーシンがドキュメンタリーの撮影を提案したとき、僕は求めてもない良いことだと、そして緑色公民行動連盟にとっても絶好の強心剤だと思った。

 始めるとまもなく、この撮影活動が責任と使命に変わった。スーシンは貢寮の海辺に家を借り、自救会のあらゆる活動を追跡した。隆隆山の上のケダガラン族の遺跡から、自前で潜水を学び、さんご礁の破壊現場まで・・・・。あの雨もれのボロ車に乗り、ときには町の年寄りの運転手を兼ね、抗議の現場へ、一人暮らしの老いた友達のところへと、一歩一歩この土地に足跡を残した。

 実を言うと、緑色公民行動連盟の若者(?)の皆も長年のたたかいで疲れきっている。一体何のためにここまでと、いつも自問している。詰まるところ、皆が一種の妙な結論にたどり着いた。「台湾にはいまだにこのような素晴らしい人々がいて、彼らの心にもっとも質素かつ真摯な美徳が見られ、彼らに味方するのは僕たちの光栄だ」。僕たちが彼らから学んだことの方がよほど多いのだ。

 一時期、朝早く自救会長からの電話に出ることをとても恐れた。なぜかというと、夜明けは漁師たちの仕事の時間であって、そして不幸がよくおきる時間でもあった。民進党の陳水扁が大統領に当選して以来、僕たちの親しい自救会の人たち7人がこの世を去った。病気のためとか、医療ミスのためとか、車の事故のためとか、海に遭難したケースもあった。そのときは決まって、「何々さんがなくなった」と受話器の向こうから聞こえて、そのあとはお互い無言のままだった。

 スーシンはこれまで、何人か自救会のメンバーの葬式を撮影してきた。それは僕たちにとって、手におえない重さでもある。これまで生き生きと頑張ってきた人々が、時の渦の中に跡形もなく消え去ろうとする切なさでもある。幸いというか、スーシンの記録により、これらのメンバーの家族の記憶にもなかった映像を告別式の時、鮮明によみがえらせることができた。
 
ある自救会のメンバーが僕にこう言った。「台湾電力は地元の人々をこう分類した。まずは反対派と不反対派、そして反対派の中には金ほしい組と金いらん組、さらに金いらん組の中には命惜しい組と命がけ組、彼らの頭を一番悩ませたこの命がけ組の人数は決して多くはない。だから、台湾電力は最後まで無視しつづけるつもりなんだ」。

せめて、貢寮の人々の反核をけっしてあたりまえだと思わないでほしい。それは想像をはるかに越える苦労である。反核運動に疲れた僕たちは直ちに台北の家に帰ればよい。けれども彼らは20年間逃れるところなく原発怪物と戦ってきた。故郷への言葉にできない深い感情があり、偉大なる意志がある。「貢寮から原発をなくそう」だけではなく、「台湾のどこからも原発をなくそう」と彼らは主張している。

 時々、あれこれの場面をスーシンが取れたらいいなと惜しかった。また、このドキュメンタリー編集で取り入れきれなかった映像ももったいないなあと思った。

もっと悔しいのは、彼らの堅持と謙遜を蔑視するやつらがいまだにいること。権力とマスコミと裕福な大都会の、傲慢と堕落の様子は、この辺鄙な海辺の町の人々の目にいかに映るのであろうか。

 1988年、塩寮反核自救会が成立して以来、彼らは一日も反核の信念を疑うことがなかった。彼らが直面したのが「真実」そのものだからだ。しかし、疲れきったあげく、彼らは自分の努力を無意味ではないかと疑い始めた。馬鹿にされないかしらと。だが、長い年月の中で、僕たちも含めて大勢の台湾人が彼らの頑張る姿に感動した経験は否定できない。反核のために流した汗が、それぞれの人生の一つの原点になっているとも言える。時が流れてゆき、彼らはまだ頑張っている。第四原発とその引き起こしたできごとは、もはや台湾社会の欠かせない歴史の1ページとなり、そして台湾社会の共通財産となった。

いま、貢寮に正義を呼び戻すときが来た。そして、台湾社会にもだ。反核だけではない。それは人間が生きるべき正義の社会のありように対して、もっとも深く省みるチャンスでもある。貢寮、お元気ですか?

(映画DVD付録ブックレットより)

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