「こんにちは貢寮(コンリャオ)」上映会
                        & チェ・スーシン監督の話


● 12月 2日 大阪、 3日 東京、 4日 新潟、 5日 柏崎、 7日 山口

ドキュメンタリー映画:こんにちは貢寮 プロモーションページ参照
http://www.SelectOurFuture.org/gongliao/

「こんにちは貢寮」日本上映を前に

チェ・スーシン

1998年にこのドキュメンタリーを作り始めてから完成するまでの長い旅の中、何度も諦めようと考えた。完成はもう無理だと何回も思った。しかし、人生の運びとともに、このドキュメンタリーもとうとう日の目を見る時がやってきた。

貢寮での初上映は一生忘れない経験となった。地元の年配の方々が、涙ぼろぼろで自分の人生を顧み、私に問いを投げかけた。「この映画、よその人間は本当に興味あるの?」「俺たちを馬鹿にしないか?」「20年も頑張って、結局何ひとつ変えることができなかった」と、悔しい、悲しい気持ちがあふれ出た。

このとき初めてわかった。ドキュメンタリーの完成はゴールではないんだ。この映画を、どうしたら多くの人に見てもらえるのか? 彼らの声を、どうしたら多くの人に伝えられるのか。これこそ私のこれからの課題だ。彼らのしてきたことをばかばかしいという人もいるが、私の目に映る彼らはまさに勇者なのだ。彼らが20年間、一筋にやってきたことは、私にこの世の中の実相を教えてくれた。

もともと私は、大多数の台湾人と同じく、幼いころから遊んできた海辺が原発のすぐそばにあることを知らなかった。貢寮の名を初めて知ったのは、大学時代のサークル活動がきっかけだった。1995年の夏、塩寮反核自救会が地元の砂浜で反原発キャンプを行い、大学生だった私は初めて貢寮に来た。そのとき、自救会のメンバーたちの話の内容ははっきり覚えていないが、彼らに強いられた不公平な運命に対してショックを強く感じた。原発がいいか悪いかとは別に、国の建設の名のもとに地元の人々の権利を抹殺し、暴力さえ振舞うなんて、これだけを知って、頭の中にあった原発神話は消え去った。

 そして、貢寮をテーマに一本のドキュメンタリーをまとめようと、大学院に入ったときに決めた。私が一番知りたいというのか、一番不思議に思ったことは、「長年の反原発運動の支えになるパワーの源とは何か」ということで、自救会の活動を中心にこのドキュメンタリーを撮り続けた。

台北での記者会見、県庁への陳情、監察院への申し入れ、原発工事現場内の調査など、一歩一歩、第四原発の偽りの聖域に入り込んだ。

最初、自分は原発反対運動を記録する客観的な立場に立つつもりだったが、だんだん自救会の人たちからも共感を得つつ、撮影にもっと積極的に協力してくれた。いま振り返ってみると、そのときから自分もこの歴史の中に巻き込まれていくのだった。

時間が経つにつれて、この町に暮らす人々のつらさがしみじみわかってきた。昔、台北の事務所で電話の向こう側から聞こえた「焦り」と「心配」は、今はもう自分の中の一部となった。冬は北東からの強い季節風のため、第四原発の臨海工事が進まず、本来楽しいはずの夏の海は突貫工事の響きに覆われた。ダンプカーから砂利を降ろす音を耳にするだけで、心が痛くなる。私よりずっとこの美しい砂浜になじんできた地元の人々にとって、この壊滅な暴挙はどう受けとめられているのか。

 反対運動の長期化によって、原発反対はもう地元の人々の生活の一部分になり、人生の欠かせない大切な一章になった。人々は運動を通じて、かけがえのない大事な絆を結んだ。漁師をはじめ、売店のご主人、食堂の経営者なども含めて、大勢の町の人々が立ち上がって、自分の信念のために尽力した。

このドキュメンタリーからもわかるように、彼らは国家暴力に圧迫され、行政特権に翻弄され、そして政治家に裏切られても、くじけず、ひたすら頑張っているのだ。

もっとも、撮影の期間中に何人もの人の他界に遭遇し、いまもその映像を見るときは悲しさを禁じえない。彼らにとって原発に反対することは、まさに、この土地を愛すること、この海を愛すること、家族を愛することであったのだ。

貢寮の彼らの姿を見て、彼らの声に耳を澄ませてほしい!

このドキュメンタリー映画は2005年4月から上映して以来、宣伝経費の僅少にもかかわらず、大勢から熱い協力を得て、台湾全土で50回以上もの上映会を達成した。そして、韓国をはじめ、カナダ、香港にも上映会に招かれた。世界中から貢寮へ1000通以上の励ましの葉書が届いた。今回は日本でも公開することになり、日本は原発の輸出国であるので、この貢寮の話を紹介することを通じて、少しでも皆様に関心を寄せてもらえれば幸いです。



映画「こんにちは貢寮」より、海上で日の丸原発の模型を燃やす(1999)

映画「こんにちは貢寮」と日本の私たち

日本から輸出された台湾第四原発建設地である台北県貢寮郷は台湾の東北部にあり、面積は9997ヘクタール、人口14000余人。主な産業は漁業と養殖業。海岸線の長さは約30キロ、風光明媚で『東北部風景特定区』(国立公園に相当)に指定されている。

1980年に第四原発の建設予定地として貢寮が選ばれた。当時は独裁政治の戒厳令下のため抵抗することもできず、1982年には土地の強制収用により230世帯が強制転居させられた。1987年になってようやく学者の張國龍らが貢寮を訪れ、地元住民に放射能の危険性を伝え、反対運動が始まった。住民にいっさい説明なく決められた原発に、住民は反対を続けた。

1991年10月3日、警察は住民との約束を破って、住民がこもるテントを破壊。警察と住民の衝突で1名の警官が死亡した。たまたま車にのっていた青年が殺人罪で逮捕され、いまなお獄中にいる。

それから7年、チェ・スーシンがカメラを持って記録を始める。 彼女はその後6年間にわたって貢寮を撮り続けることで奇しくも、政権交代に象徴される台湾の歴史そのものを記録していくことになる。しかし、6年後に彼女が完成させた映画には、ひとすじのぶれもなく、貢寮の人々の目線からそのすべてが描かれている。

冒頭、彼女はこう語って映画を始めている。「お年寄りから原発に関する話を聞いて、だんだんわかってきました。貢寮の住民は第四原発の建設が決まった日から、長く辛い道を歩み始めていたことを。私はカメラをもって、私が立ち会えなかった歴史を記録しようと決めました。長年の努力と抗争の中の人々の人生と心情を記録したいのです」

そして、この記録映画は二つの意味で日本の私たちと大きなつながりを持っている。一つは、日本からその原発が輸出された、ということ。もう一つは、日本の多くの原発予定地と同じように貢寮の人々も闘い続けている、ということ。実際、この映画に出てくる貢寮の人々の様子は、これまで日本各地で闘われてきた原発予定地とほんとうによく似ている。バスを仕立てて都会へ繰り出す様子、海上デモの様子・・・・。

住民投票の圧勝、反対派の知事、建設中止公約を掲げた陳総統の当選など、日本ならば確実に止まっている状況が続く中、しかし建設は止まらない。

それでもなお、この映画が指し示す未来を信じられるかどうか、それは私たちに向かって問われているのかも知れない。(とーち)

【こんにちは貢寮】上演時間:89分
監督:崔?欣(チェ・スーシン)
制作:呉乙峰(ウー・イーファン)
★2004年宜蘭国際緑色映画祭観客選考最優秀賞
★2004年南方映画祭選出
★第27回金穂賞最優秀ドキュメンタリー

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