ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.73より
大庭里美さんを悼む


プルトニウム・アクション・ヒロシマの大庭里美さんが2月24日、急逝されました


       大庭里美さん
http://homepage2.nifty.com/gemini/index.htmlより

私が知るずっと前から韓国の反核運動を支援して下さった大庭さん...。
韓国で争う度に「君のための行進曲」を今度はあなたに捧げなければならない。本当にことばがありません。

あまりにもエネルギッシュに活動したあなただから、「倒れて意識がない」と言われても、まさか死にはしないだろうと思って、亡くなったと知らされてから呻きました。

交通が不如意で劇的に対面したあなたは、いつものようにきれいな姿で、献花の中にいました。本当に胸が痞えるようでした。

あなたに会って、反核を話して、世の中の不條理に一緒に怒ってから11年。あなたに憧れて、あなたに付き合って、たまに勝手にあなたを批判したり遠ざけたりしたことをしみるように後悔しますし、申し訳ないです。あなたを送ってから、あなたの多くのことを理解するようになるなんて。本当に私は馬鹿です。

「恋も名誉も名も求めず一生涯進もうと誓った熱い盟誓、歳月は流れても山河は知っている、先立って行くから、生きている者よ後に続け」(韓国の闘争歌「君のための行進曲」)という歌を歌って、自分こそ歌詞のようだとおっしゃったあなた。

一番活発に運動して一番重要な時期に活動するあなたを連れて行った死に神こそルール違反だと叫びたいです。映画の中の主人公のように絶頂期にいきなり去ってしまった。私はあらゆる悔恨と涙で辛かったです。

暖かい春、美しい花が咲いた49日、あなたの家族とあなたの不在を今更認識して、紙のように軽くなったあなたの遺骨を安置して、あなたの他界を認めざるをえなかったです。

韓国の仲間たちにもっとも強い印象を残した優しかったあなた、絶望的なこの世の中に屈しないで旺盛に「希望の種子」を振り撤いたあなた、これからはあまり焦らずに永遠に安らぎなさるのを祈ります。  (キム・ボンニョ)


いつも核なき世界のために献身的に活動するあなたの姿を見てきたので
急な消息に驚かざるをえないです
反核運動に対するあなたの情熱は
国境を超えて、多くの人々の模範になるでしょう
核問題が全地球的な問題であるように
核なき世界を作る活動も全地球的な活動です
誰より積極的だったあなたの活動に敬意を表し
あなたの遺志を引き継いで、核なき世界のために熱心に闘います
冥福を祈ります  (韓国反核国民行動)


アボリション2000グローバル評議会(The Abolition 2000 Global Council)は、大庭里美さんの核廃絶への献身的な働きに、多大なる感謝の意を表します。とくに、原子力の「平和」利用という核拡散へ必然的に加担する愚行や核兵器の病理を止めるため、弛まぬ努力を惜しまなかった大庭さんに、心から敬意を表すると共にご冥福をお祈りいたします。
             (アボリション2000グローバル評議会)


ワチャリー、アイダ、サンティ、ジャアド、私たちタイのAEPSのみんなも、里美さん逝去の悲しみを表現する言葉がみつかりませんでした。ショックで、たいへん辛いニュースです。
彼女の思い出は私たちの中でまだ鮮明です。彼女は本当にたいへん特別な人で、思いやりに満ち、世界平和のために献身的にとり組んでいたのをよく知っていましたし、優しく、勇敢な母親であることもみんな知っていました。
彼女のご家族と日本の仲間のみなさんに私たちの深い哀悼の気持ちをお伝えください。とくに娘さんたちには、タイにいらっしゃるならいつでも大歓迎ですので、私たちをタイの家族と思ってください、と。親愛なる里美さん、どうぞやすらかにお眠りください。Idaより  
   (*以前、大庭さんはタイに娘たちを連れて行ったことがある)


里美さんの写真を今日、広島の平和の灯のご宝前に上げさせてもらい、仏教の習わしで蝋燭に火を灯しました。この火を四十九日間、灯し続け、この間、里美さんと共に毎日祈りたいと思います。
彼女は生前、量りしれない贈りものを私たちに与えてくれました。
もしかしたら、向こうの世界から私たちを助けるために、先に行かれたのかもしれません。 (パメラ・マイデル/アトミック・ミラー)


大庭さんと初めて会ったのは、1988年か89年の8月の広島での集会だった。チェルノブイリの事故後、原発を止めるために何かしないではいられず、夏には帰省する広島でも、思いを同じくする人と出会いたいと思っていた。「なんだか初めて会ったような気がしないわ」と里美さんは言ってくれた。私もこの人に会うのは初めてではないような気がしていた。「県北から行進してくる子どもたちを迎えてやりたいから」と早めにその場を去っていった里美さんに、強くけなげな母を感じた。

その後広島にUターンし、大庭さんの活動を手伝うようになった。私の運動への関わりは「食べていくための仕事の後」だったけれど、大庭さんはそれを「本業」としていた。「やりたいことをやってるから、幸せと言えるんだろうね」と大庭さんは言っていたけれど、それは大変なことだった。

大庭さんは、生活をかけて、誰もが知らなければならない、それこそ地球の未来がかかっているような重要な情報をみんなに送り届けようとした。圧倒的な力で人々を欺こうとする巨悪に、ボディブローを浴びせつづけた。

今、「大庭さんの遺志を継いで」と、陳腐なことは言いたくない。ひとりひとりが自分自身そして未来の人々のために自分の知恵をしぼって立ち上がること、それが大庭さんが望んでいたことのように思う。
(西塔文子)


言葉を失うというのは、「絶句する」という意味だけじゃない。大庭さんが急逝してから2か月たつというのに、私はまだ彼女を悼むにふさわしい言葉をみつけ出せずにいる。

彼女が倒れる2日前にくれたメールは、私が翌日に配管減肉問題で保安院交渉に東京に行くのをねぎらってくれたものだった。その前に送った私のメールが「忙しくてやれやれ」という愚痴っぽいニュアンスを伝えていたからだろう。彼女にしてはめずらしく短いメールだったので、本当は彼女自身の方がものすごく忙しかったのかもしれない。なのに。そのことを思い出して今も胸がチクリと痛む。人の心配より、もっと自分の体をいたわってほしかった・・・・。

彼女は、政治的な妥協や保身のために口をつぐみ目をつむるということのできない、常に「直球勝負」の人だった。何が問題かを直感的に見抜き、素早く行動した。腰の重い大組織のプロよりも、草の根で地道に活動する素人との関係を大事にしていた。

馴れ合いや持たれあいで理念を曖昧にしていく運動や、権威や肩書きにあぐらをかき、女の下働きを当然とみなす男中心の運動には容赦なかった。そのために、つらく困難な立場に立たされることも数多くあったと思う。

そして、時間の切り売りをして定収入を得るより、自分のやるべき仕事に専念するために、正当な報酬を得にくい通訳・翻訳業等で生活していくことを選んだ。一人で3人の子どもを育てながら。それはとても普通の人には真似できないことである。それでも彼女は自らの良心に従い、原則を唱え続けた。だから彼女はしがらみがなく、誰からも自由で、いつでも晴ればれと自信に満ちた表情をしていた。

彼女がこれまでにやってきた貴重な活動については、あえて書くまでもない。私はそうした彼女の聡明さだけでなく、精神的な強さと前向きさにいつも驚嘆し、尊敬していた。彼女が私に遺してくれたものは、運動の面でも、個人的な面でも言葉で表現できないほど大きい。

大庭さん、あなたに出会えて本当に良かった。お別れの言葉はまだ言えそうにないけれど、「ありがとう」とだけ今は伝えたい。
(安楽知子)


大庭さんの訃報を知らされたとき、悲しみより驚きが先だった。私はとるものもとりあえず広島へ向かった。風花が舞う寒い夜に営まれた通夜は、それこそ様々な立場の人が集まり、大庭さんの足跡を讃え、早過ぎる死を悼んだ。

私が大庭さんを初めて知ったのは、1991年の秋、大宮で開かれた「国際プルトニウム会議」のときだった。その後もNNAFを中心に、公私ともにことある度に話し合ってきた。お互いに母子家庭というのも悩みや喜びを共有できたのだと思う。

大庭さんは、原発と核と戦争をきちんと結び付けて考える人だった。その3つの運動体がバラバラな日本の市民運動の中ではまさに貴重な存在だったと言えよう。頭脳明晰で堪能な語学力を駆使して、核社会に警鐘を慣らし続けてきた。行動範囲は国内のみならず、アジアはもとより、世界中に及び、ミサイル防衛や宇宙開発にも反対してきた。

核廃絶へ向かってひたすら走り続け、決して揺るがない信念の人であった。経済的に苦労しながらも、4人の子どもを立派に育てあげ、「これから」というときにと思うと、残念でならない。私には大庭さんの後を継げる能力はないが、大庭さんと知り合えたことに誇りを持ち、反戦・反核運動を一生続けていこうと思っている。 (堀口邦子)


あなたが亡くなってから私は、寝室の壁にあなたから送ってもらった「平和な宇宙をいつまでも」という夜空にピースマークの星が輝いているポスターを貼りました。毎晩それを見ながら、あなたとのことを考えています。

2001年9月、そう、あの同時多発テロがあった時に行われていたNNAF韓国会議の最後にみんなで議論になりましたね。さとみさんやコラソンさんは「NNAF会議ではもっと世界の核の情勢について論議して、コメント等を発表する場を設けるべきだ」とアメリカによる宇宙の核支配の話をされました。それに対してトーチや私は「NNAFは核や原発の現地を訪ね、住民と苦労を分かち合うところに魅力と価値がある。世界の核について話すことはインターネット上でもできる」等と反論して、全体としては物別れになった印象でした。その後私たちは少し疎遠になっていきましたね。

三重県の志摩半島で生まれた私は30有余年にわたる芦浜原発反対闘争を間近に感じて育ちました。そのためか、原発現地の人びとの思いや苦悩を自分の活動の原動力にしている気がします。一方、被爆地「ヒロシマ」に暮らすあなたはやはり「ヒロシマ」が原動力だったのですね。「ヒロシマ」からは世界の核が直接見えたのでしょう。さとみさんは世界に開いた「ヒロシマ」の窓でした。激しい風も雨も全てを受け止めていましたね。

強く、激しく、そして傷つきやすかったさとみさん。もっと後ろで支えてあげればよかった。ゴメンね。でもあなたはきっと地球を離れた今でも、宇宙の星に、核をもてあそぶ人類の愚かさを聞かせていることでしょう。私はポスターからその声を聞き続けています。(小木曽茂子)


最後に話したのは2月11日、京都からの電話だった。緑の党関係のアジア太平洋国際会議の会場からで、フィリピンのコラソンさん、台湾の高成炎さんと、大庭さんが、かわるがわる「なんで来ないの」と。あいかわらず元気そうだった。私よりずっとずっと一生懸命な彼女に最後に言ったことば「ゴメンネ」。

NPT(核不拡散条約)再検討会議に向けた「アボリションナウ(今こそ核廃絶を)」やIAEAの原子力推進の転換を求める世界的キャンペーン。大庭さんは世界の人々と私たちをつないでいた。原子力産業や、日本でプルトニウム利用政策を進めている人々にとって最もいやな動きをしていたし、さらにしようとしていた。

「春に、NPT、IAEA、もんじゅ、再処理工場を論じる集会をしよう」と彼女と約束していたので、打ち合わせのため、2月15日と16日、何回も自宅に電話したがつながらなかった。「おかしいな、広島にいるときはよくつながるのにな」としか思わなかったことが悔やまれる。なぜ、あのとき「変だ」と思えなかったのか。もし、「変だぞ」と近くの誰かに電話していれば、あるいは助かったのかもしれない。16日午後倒れたそうだ。お葬式での大庭さんの顔は、「まだまだやらなきゃならないことがいっぱいあるのよ」と言っているようでもあり、精一杯生きた、という安らかな顔のようでもあった。

最初に話したのは1992月7月。もんじゅへのプルトニウム燃料搬入、白木の浜での抗議集会で私は軍事利用の危険をアピールしたが、同じことを広島の女性が数倍の迫力、説得力でアピールした。3か月後、「核も原発もいらないアジアフォーラム」の呼びかけ人の一人になってもらった。

英語では「ニュークリア・パワープラント」、韓国、台湾でも「核発電所」。「そもそも原発っていう言い方がおかしいのよ」「原発をなくさなければ核兵器もなくせない」「核兵器反対なのに原発に反対しないのはおかしいわ」。以来、大庭さんは第10回フォーラムまでほとんどすべてに参加。発表、通訳、宣言文起草委員、前後の翻訳などなど、ノーニュークス・アジアフォーラムにとっても、なくてはならない人だった。多くの記録ビデオをあらためて見た。彼女がいっぱい映っている。怒り、泣き、笑い、歌っている。生きている。

韓国の民衆歌や、タイの民衆歌、「ウィ シャル オーバーカム」、よく一緒に歌った。純情と情熱の人だった。 (佐藤大介)


里美ちゃんが遺した本たちをよろしく! 
                   小川美沙子(鹿児島市会議員)

大庭里美さんほど、反戦・反核・反原発の活動に対して労を惜しまず、ひたむきに生きた人を他に知りません。

2002年には「宇宙の兵器と原子力に反対するグローバル・ネットワーク」の宇宙平和賞を受賞され、世界中の反戦・反核・反原発のNGOの仲間たちと広くネットワークし、世界を飛びまわり、マスコミの報じないニュースも、いち早く私たちに伝えてくれていました。

ハーグ平和会議で、米のオーバビー博士が日本の憲法九条を評価されたこと、COP6で「二酸化炭素を排出しないクリーンな原発」と発表した日本政府が世界中からひんしゅくを買ったことなど、常に貴重な情報を日本語に訳し、身近に等身大感覚で伝え喜ばれていました。

今年に入り北朝鮮の核保有宣言があり、5月の核不拡散NPT会議では、里美ちゃんのご活躍が期待され求められていただけに突然の死が残念過ぎます。大庭里美に代わる働きをしてくれる人は、今の日本には他にいないと思いますが、精一杯の彼女の志を、私たちが引き継ぐしかありません。Love is peace !

さて通訳・翻訳を頑張った里美ちゃんでしたが、2冊の本が全国の書店の棚に並ぶのを見ることなく先立たれました。翻訳にもかなりのエネルギーを注がれていました。里美ちゃんの私たちへの遺言として、31のメッセージに想いを重ねて読ませて頂くことにします♪  

里美ちゃんのひたむきな平和への想いは、いつまでも、私たち世界平和を願う者の心に生き続けることでしょう。どうぞ下記の里美ちゃんの本を読んで下さい(^-^)/~

『あなたの手で平和を! 〜31のメッセージ〜』
フレドリック・S・ヘッファメール編 
大庭里美・阿部純子訳 1900円+税 日本評論社
高橋哲哉氏の序文に始まり、ダライ・ラマ、ダニエル・エルズバーグ、ミハイル・ゴルバチョフ、ネルソン・マンデラ、ハワード・ジン、ジョディ・ウィリアムズ、モルデハイ・バヌヌなどからの貴重なメッセージが詰まった本です。20ヶ国の言葉(予定を含めて)に翻訳されている書。

『NPTの虚構』(仮)
大庭里美著 6月発行予定 南方新社(tel / fax 099‐228-8793)
目次:「トリニティの祈り」、第1章「縮小ではなく廃絶を!」、第2章「六ケ所再処理工場は世界への脅威」、第3章「なぜプルトニウムにこだわるか」、第4章「インド・パキスタンの核実験とカーン博士のネットワーク」、第5章「フランス核実験ともんじゅ」、第6章「痛快無比な市民の核廃絶行動」、第7章「核と先住民族」、第8章「劣化ウラン」、第9章「9.11と米の核政策」、第10章「アボリション ナウ!」、第11章「軍縮と核不拡散教育」、第12章「北東アジア非核地帯の夢と障害物」、第13章「人間の安全保障 〜グローバリゼーションと災害、原子力災害〜」
 
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