ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.66より

プアン(扶安)
自主住民投票


金子貞男(巻原発反対共有地主会)
  

写真:「チャムソリ」http://www.cham-sori.net/より

全羅北道プアン(扶安)郡。ここはかつて東学党の乱として知られる農民反乱の地であった。インターチェンジを降りると、東には白山という名の小高い山並みが平野の向こうに浮かび上がる。この由来は、1894年春、白装束をまとった農民たちが山の頂に集まり、里から見ると冬山のように真っ白に見えたことからきているという。

東学党とは1860年に崔済愚が創始した民間宗教だが、土着のシャーマニズムを基礎にしながらも儒教や仏教、神仙思想、さらにキリスト教などの教義を取り入れるなどカオスに満ちたものであったようだ。韓国の人々の間では甲午(こうご)農民戦争と呼ばれている。

自力で建設した灌漑施設が生み出した富に重税を課し、横取りしようとした地方官に農民が納税拒否で応じたことが発端である。基本的には農民反乱であり、少数の東学党員は小規模の反乱を結び、抵抗の言葉を与え、ついには地方官を放逐して全羅道全域を解放した。

朝鮮政府はこの農民反乱の鎮圧のために清国に援軍を求め、要請されていないにもかかわらず日本も派兵を開始した。以後、日清戦争、日韓併合と続き、朝鮮半島をめぐるパワーゲームと日本の植民地支配の渦中で民衆は泥炭の苦しみを強要されることになる。甲午農民戦争は人々の間で民衆解放運動の原点のような意味合いを持っている。

31日間の断食を続けたムン・ギョヒョン神父は「いとしいプアン」という詩集を発表したというが、軍事独裁政権の時代を含めて韓国近代史の地層に「恨」の鉱脈をはぐくんだ地であったことを考えれば、彼の思いの一端がわかるような気がする。

韓国のMBCテレビが住民投票運動を取材したいと2月上旬にクルーが巻町を訪れ、案内したことが発端で、どういうわけか私が訪韓することになった。予備知識もないまま町長選挙運動と巻原発計画白紙撤回の余韻を引きずった状態で、プアンの自主住民投票に立ち会うことになったので、かなり主観的な報告になっていると思うが、どうかご容赦願いたい。

●プアン自主住民投票

核廃棄物処分場建設をめぐって行われたプアン郡の自主住民投票は2月14日、有権者5万2千人余りのうち、7割以上の住民が投票所に足を運び、そのうち9割以上が建設反対であった。商業高校を借りた投票所では早朝から長蛇の列がつづき、投票するまで3時間もかかったという。

行政の長である郡守や道知事は、連日公務員を動員して「違法な投票に行くな」と住民を脅かし、軽飛行機で大量のビラを撒いた。誘致派は52台のバスを用意し、投票日当日は住民を旅行に連れて行く予定であったが、実際運行したバスは3台のみであった。建設予定地の島、ウィド(蝟島)は誘致派島民50名が投票所を占拠して、「投票するなら腹を切って死ぬ」と凄んだ。前日にはバス3台に分乗した機動隊がフェリーに乗るのをキョッポ(格浦)港で目撃したが、その理由を聞くと混乱を防ぐためとの答えが返ってきた。

同じボイコットの嵐にさらされた巻町の原発建設をめぐる自主住民投票の経験から見ても、この結果は圧倒的であり、驚きに満ちたものである。奇跡としか言いようがない。

民意は明確であり、郡守は核廃棄物処分場の受け入れを撤回するか、法的根拠がないというなら辞任してもう一度選挙で政策の是非を問うべきだろう。いやむしろ、なぜこのような民意と離れた首長が存在するのか、権力のありようをめぐる根本的な問いが住民の間で生まれていたように思う。

プアン核廃棄物誘致住民投票選挙管理委員会はこう宣言している。

「これにより私たちは韓国の住民自治・地方自治の歴史に、新しいページが刻まれたことを宣言します。またこの瞬間、新しい参加民主主義の時代が開かれたことを宣言します。住民たちの自主的な管理による住民投票が、行政機関の非協力・妨害の中で、むしろ既存の行政機関による投票よりも、より徹底的に公正かつ平穏に行うことができたことは、きたるべき分権と自治の時代においての、すばらしい指針と教科書になったと確信します。本日プアンは韓国の本来あるべき民主主義を描きだしました」。

自主住民投票は制度に拠らないだけに、住民の強い意志と自立性が必要とされる。しかも根源的であるがゆえに、ここで示される民意は政治的な表現を求めて成長して行くはずだ。はじけるような内発性をもつプアンの民意は、権力的なものを相対化し、政策過程に対する決定権をもとめて力を発揮していくだろう。宣言が語るように観客民主主義を超え、参加民主主義へ大きな転換をもたらすにちがいない。

主権者は住民であり民主社会の原理は住民自治であること、この当たり前の事実がいかに多くの苦渋に満ちた労力と犠牲の上に成り立たつものか、半年あまりの住民のたたかいは私たちにこの原点を教えてくれているのではないだろうか。

●聖堂、農民会、共同体

私が感じたプアン郡の印象は昔風に言えば一種のコンミューンのようなものであった。実際、郡守と住民の関係は二つの権力が並存するような状態にあったし、むしろ力関係は完全に逆転しつつあった。日本の居住区で言えば村に相当するそれぞれの「面」に核廃棄物処分場対策委員会があり、あらゆる職種と階層の人が反対運動に参加していたし、その表現はチャンゴのリズムに似て多声的なものであったからである。

郡守が受け入れを表明して約半年あまりの短期間で住民の未定型の声が表現を獲得し、これだけ大きな反対の言葉を紡ぎだしていった理由のひとつは、おそらく、宗教者の豊かな精神性にあるのだろう。これを象徴するのが運動の拠点であった聖堂とプアン対策委員会の共同代表を務めていたキリスト教、仏教(禅宗)、円仏教の宗教者たちである。特に聖堂は公権力も介入できないアジール(避難所)としての役割を果たした。実に多くの人が聖堂に集まり、語らい、食べて寝て、インターネットで情報を発信していた。高速道路の封鎖など公権力と激突した局面で指名手配を受けた人たちの幾人かは聖堂に避難していたが、混乱を防ぐなどの理由で警察も強制介入を控えていたようだ。

ある時、最も困難な局面で大統領府に向かって行われた三歩一拝(三歩あるいて身を伏せ拝むこと)の意味は何かと問うてみると、これは自分に対する苦行なのだという。チベット仏教の五体投地に似た三歩一拝の意味は、なぜこれだけ激しく、多数が衝突で負傷し、生活を犠牲にしてたたかっても社会全体の共感を得られないのか、この根本的な原因はしかし反対運動にどこか未熟な点があるからではないか、これを正すための表現なのだという。絶えず問いを自己へ投げ返し、より厳しい状況に身をおく発想は、苦行に似て宗教者らしいものだが、この倫理観に多くの人々が共感を示し、常にたたかいの輪の中心には宗教者がいた。

もうひとつ印象的だったのが、プアン対策委員会で反対運動を導いていた人たちの多くが、大学を卒業したのちプアンに住みつき、農民運動にかかわっていた人たちであったということである。共同体を作り農業を営む人たちもこれに加わっている。沢村さんや水戸さんと合流した12日夜、聖堂で彼らと語り合う機会があった。

私たちは何もしていない、すべては住民が自主的に行ったものだと謙虚に運動を振り返っていたが、どうしてこんなすばらしい運動ができたのか、その源泉は自分が何をできるのかを知っていた住民の世代間の調和とそれを可能にした風土にある。山、川、海、野原、プアンの山河が人々に調和を与えている。すべての人々が参加したたたかいは、よりよい未来を夢見る人がエネルギーとなって勝利に導いた。

その未来のイメージはハルモニ(おばあさん)の中にあったという。人生の末日をむかえたハルモニたちは在りようそのものが自然にちかい存在であり、ゆえに、近代化の象徴でもある原発と核廃棄物の危険性を直感で感じ取っている。事実、連日行われたろうそく集会に多くが参加し、公権力の暴力の前では身を呈してこれを防いだ。

産業社会はハルモニたちを融通のきかない克服すべき対象として扱うが、これは近代合理主義が生んだ分析思考の結果であり、自分が自然であり、空であるという調和感覚が身についている彼女らの価値と存在は継承するべきものである。これはたたかいの中で感じた新しい哲学的な体験であり、おそらく未来のビジョンの中心的な思想になるものだ。

こんな会話が交わされていたように思う。

通訳をしていただいたキム・ボンニョさんの解説によれば、このハルモニを見つめる視線には両義的な意味がこめられているという。近代化とともに変わってきているものの、儒教の伝統が色濃く残る韓国の農村社会では女性に対する抑圧感が強く、反対運動で大きな役割を果たした女性たちは厳しくも祝祭感に満ちた日々の中で自信を深め、解放されていったのではないか、さらに身に付けた生命力は逆に男たちを抱擁し、鼓舞していったというのである。

いずれにしても、比喩を用い具体的な存在をある種、哲学的なものへと昇華する発想は、それだけ運動が豊かで多義的な意味を持っていたということだろう。しかも地域社会の内側からでた言葉だけに、この感覚は多くの人々に共有されているのではないだろうか。

●ウィドとセマングム防潮堤


核廃棄物処分場予定地の島であるウィドはキョッポ港からフェリーで40分ほどの距離にある。13日は島を訪ねた。672世帯1648名が住んでいるが、大部分の住民は誘致すれば高額の補償金が手に入ると韓国水力原子力発電に言われ、サイト建設に賛成している。しかし反対派の拠点集落もいくつかある。男女別の老人クラブをたずねる機会があった。

植民地時代には日本人も住んでいたというウィドは韓国3大漁場のひとつ七山漁場の中心地である。霊光イシモチの産地でもある。南へおおよそ20キロの距離には霊光原発がある。北には世界最大の干拓地になるセマングム防潮堤が沖合に伸びている。島民の生活がどんな状態あるのか、この事実からおおよそ予想されるのではないだろうか。

浅瀬が広がる海であるため温排水の影響を強く受けて魚場が沿岸から沖合に移動し、しかも巨大な防潮堤は潮の流れを変え、工事用の土砂が海底に堆積して豊かだった漁場は変質していったのである。漁民たちは沖合で漁をするため新しい船を買う必要に迫られた。この結果、高額の負債を抱えることになったのである。そこへ島出身の郡守から降って沸いたような話が舞い込んだ。予定地は山頂近くの傾斜地である。

しかし、ここにも、たとえ10倍のお金を積んでも土地は売らないという住民がいた。彼が電子メールで不審な動きを伝えたことが反対運動の始まりであった。名前を徐さんという。ソウルで住宅開発に携わる実業家であったが、年老いた父親の世話をするため家族を残し単身で島に戻り、ロッジ風の家を建て住み始めた。かつては理想郷と歌われた島の豊かな自然と風光明媚な景観を生かし、お年寄りの保養センターを作ることが目的であった。島を案内していただいた後、光にあふれ干潟に面した自宅の2階で話を伺う。実業家らしく島の可能性を読み解き、明快な将来プランを持っている人であった。

●辺山面、鎮西面の対策委員会

各地域の投票率を見ると公務員が多い中心部は60%程度のところがあるが、漁村や農村地帯ではのきなみ80%を超えている。これらの地域ではほぼ全体が核廃棄場に反対していると見てよいだろう。とくに、ろうそく集会に参加するためにバスを買ったという二つの面を紹介したい。巻町の自主住民投票を紹介して議論を交わす機会があったからである。

両地域とも観光や水産物の加工販売をする市場を中心に居住区があり、休日には多くの人が訪れる。核廃棄物処分場が建設されれば最も影響を受ける地域でのひとつである。家の前には反対運動のシンボルカラーである黄色い旗が掲げられ、壁にはスローガンがイラストとともに描かれていた。ひと目で反対の拠点地域であるということがわかる。多くの女性たちが宣伝・広報で忙しそうに動き回っていた。

ウィドに向かう船がでるキョッポ港は刺し身屋が並ぶ景勝の地であり、対策委員会の代表は食堂のご主人であった。彼の息子は機動隊に入隊しており、暴力的な弾圧が激しく続いたある日、偶然、親子は顔を合わせたのだという。そのとき父親は「おお息子よ」と絶句し、息子も涙で前が見えないほどであった。「キョッポの涙」という題名でこの物語はインターネット上に紹介され、一躍有名になった。キョッポは反対運動の拠点のひとつである。

塩辛の加工場のある鎮西面の組織部長はカラオケバーのマスターである。郡守の支援者でもあった。一生懸命選挙運動を手伝ったにもかかわらず、なぜ住民の意見を聞こうとしないのか、裏切られたという思いが募り、悔しくてたまらないという。郡守の人間性は動物以下であり、殺して自分も死のうと思った。來蘇寺で郡守を見つけたときは本当にそのつもりであったと話す。どうすれば住民同士の対立を解消できるか、巻町ではどうでしたかと話がはずむ。どうすれば「葛藤」を解決できるのかという問いを何回受けただろうか。

実際に抗議の意思を示すために灯油をかけて焼身自殺を試みた人もいる。運良く火はつかなかったようだが……。また、あるハルモニは牛を売って得たお金の全額を運動に提供した。ある農家は収穫をあきらめ、畑を耕してしまった。さらに、機動隊の暴力的な弾圧に対して住民たちは腐った塩辛弾で応じた。洗濯をしても3日は匂いが消えないという強烈なものだ。

手段の是非はともかく、いかに対象への思い入れが深いか、私たちの感覚からすれば理解しにくい面もあるが、多くの犠牲の上に築かれた民主社会であることを思えば、彼らにとって当たり前のような感情なのかもしれない。

他方、他者を受け入れる寛容性に富み、率直な意思の表示は実にわかりやすく、相互に理解し合えば強い絆で結ばれる、こんな魅力に満ちた人が多い。事実、多くの場で見知らぬ人からアンニョンハセヨ(こんにちは)と声をかけられ、日本の市民の連帯に対する感謝の言葉を聞き、昼食をご馳走になり、酒杯を傾けることになった。投票当日の自信に満ち充足した住民たちの表情は、激しいたたかいの内側にいたものだけが知る解放感からなのだろうか。

●祝祭の空間


15日の集会、手前がタイムカプセル


投票日14日の夜は反核民主広場にステージが設けられ、開票の様子がインターネットで同時中継された。7時すぎ、チャンゴ隊の踊りとともに続々と人々が集まり、マッコリとおでんが配られ、ドラム缶に火が焚かれ、焼肉をつつきながら寒風を吹き飛ばすかのような熱い集会が続いた。

書を描きながら民族的な色合いを表現したパフォーマンスや女性ポップ・シンガーの歌、権力支配を象徴するのだろうか、大きな鎖を抱いた人々が長蛇の列をなし、ステージに上った瞬間、大音響とともに切断される。マンセー(万歳)の声が響く。郡守への暴行を扇動した容疑で指名手配され、自ら警察署に出頭し40日余りの拘束から前日解かれたばかりの男性は、知り合いだろうか、女性の顔を見出すや一瞬、お互いの表情が崩れ抱きあった。チャンゴのリズムに導かれるように果てることなく続いた踊りは、人々の輪となって広場の隅々を移動した。見知らぬ人からはマッコリをすすめられ、酔いに任せてか大きなハングルで声をかけられ、握手を求められる。実にみんな楽しそうである。プアンは農楽の発祥地のひとつなのだ。

ある人は韓国のたたかいとは生活文化であるといっていたが、なるほど表現が豊かである。見ている側もすんなりと感情移入しているようで、一体感に満ちている。祝祭の空間そのものだが、かつては日本にもあった解放区という言葉が思い浮かぶ。

翌日は報告集会が行われた。光州から戻ってみると、広場の歩道の脇には石造りのタイムカプセルが置かれ、中にはさまざまな宣伝グッズとともにたたかいの記憶が封印されていた。いつ開かれるのだろうか。私たちも記念碑をつくり、全国から巻町に寄せられた激励のハンカチをカプセルに包み埋設したが、考えることは似ているものだ。

●社会的な連帯

経験的にわかるのだが、自主住民投票は膨大な資金と実務を必要とする。巻町では2万3千人たらずの有権者だったが、1千万円の費用を必要とした。選挙人名簿に基づいて全ての有権者に入場券を送った。さらに立会人を置き、投票は15日間続いたので投票箱の管理は専門業者に頼んだ。全ての情報を公開して投票の公明性に細心の注意を払わなければ、社会的な信頼は得られない。

プアンの自主住民投票では「投票管理委員会」を組織して、弁護士が代表となり、公明性の確保に全力をあげた。投票前日の13日、全国から1千人の支援者が集まり、会場の設営や選挙公報を全域でおこなった。巻の倍以上の有権者が対象だから、その労力は想像を絶するものがあるだろう。広い社会的な連帯がなければ実現できるものではない。

とくに選挙人名簿の提出を行政が拒んだため、有権者を特定するために電話や対面調査で確認せざるを得ず、プアン中心部ではこの作業に追われ、充分な運動ができなかったようだ。しかし、わずかひと月余りの準備期間で、通常の選挙と同じような体制を作り上げ、反核民主広場と開票所の体育館を結ぶインターネット中継をして、衆目の前で開票を公開した。この組織力は実に見事なものであった。知識人たち、参与連帯に集まる市民、環境運動連合、全国農民会総連盟、教職員組合などの韓国民主労総……、多様な人びとがひとつの絆で結ばれ裏方で実務を担った。自主住民投票は壮大な連帯の場でもあったのである。

資金援助を目的に9日、ソウルで行われた連帯の夕べでは、参与連帯が経営するレストランに各界を代表する人たちが集まり、金芝河さんも絵をオークション用に寄贈していた。

プアンと巻の自主住民投票について60万人の組合員をもつ韓国民主労総から原稿を依頼されたが、両者は直接民主主義の実験という意味で注目され、共感を呼んだからであろう。住民が政策の決定権を取り戻すという点で、自主住民投票は分権と住民自治の扉をあけ、参加民主主義の時代を切り開くに違いない。

民族主義的感情が強いのは歴史的事情から考えても理解できるし、地域間の対立も、たとえば光州と大邱の関係を考えれば一目瞭然であろう。中央集権への志向も依然として強いようだ。それだけに、国の統治イデオロギーに対案を示したという点で、プアンの試みはもっと広い意味をもつのかもしれない。マスメディアもこの点に注目していたのではないだろうか。国営放送のKBSは朝のニュースで連日経過を報道していたし、MBCテレビは15日、15分ほどの枠を取り、取材した巻とプアンを対比する形で報道し、記者のムーさんは、郡守が民意をどう尊重するかにプアンの未来がかかっていると結んでいた。彼女はまだ30代だが、ミシェル・フーコーやJ・ボードリヤールなどに関心を持っているようで、韓国でも90年代はポストモダンが思潮として流行していたと語っていた人である。消費社会の文化状況にあるという意味で私たちは同時代を生きている。

●市民の絆と今後の動き

私がソウルに到着したのは8日の夜であった。巻の住民と全国からの支援カンパを手にしていた。到着するやいなやさっそく仕事が待ち受けていたが、ない知恵を絞って、翌日の参与連帯の事務所で行われる予定の記者会見と連帯の夕べのために資料を環境運動連合のスタッフと顔をつき合わせて作りあげた。とくに住民投票管理員会は多額の資金を必要としていたようであった。連帯の夕べでは参与連帯代表のパク・ウォンスン弁護士と支援カンパの授与式みたいなことをおこない、このシーンは韓国聯合ニュースなど、多くのメディアで報道されたようだ。

そのせいかプアン入りした10日、5千人はいただろうか、200日目のろうそく集会で、プアン住民のたたかいが日本の市民に共感を巻き起こし、支援のカンパが寄せられ持ってきたことを報告すると、こぶしを突き上げ、「ウォー」という声が返ってきた。東北電力は巻原発を白紙撤回しました。ウォー。私たちは勝利しました。ウォー。住民投票が大きな力をもちました。ウオー……。こんな感じである。その後、多くの人にお会いしたが、そのほとんどの人から、遠くから来て、カンパまでいただいてと感謝の言葉を聞くことになる。

翌朝、散歩がてら外に出てみると、すでに十字路には幾人もの住民が立ち、投票を呼びかけていた。あらゆるウインドーには投票のポスターが張られ、ビルの屋上には投票を呼びかける大きなアドバルーンがいくつも上っていた。道行くタクシーには黄色い旗がたなびいている。何かせずにはおれない、そんな熱気のようなものが街に充満していたように思う。

対照的に聖堂のそばにある郡の役所は入り口がコンテナで塞がれ、機動隊員がたちガードして、郡守は蓑虫のように殻に閉じこもっていた。プアン五賊という言葉がある。郡守、全羅北道知事、議長の順番だそうだ。

プアン住民は圧倒的に勝利した。しかし気になるのは今後の動きである。投票翌日の新聞では、郡守や知事はあくまで7月に住民投票条例を制定し、今度は全羅北道で住民投票を行うべきだというコメントを述べていたようだ。負けはしたものの、違法だと仮処分の裁判提訴までしたのだから、当然予想できた発言だろう。

プアン対策委員会は投票翌日の15日、キョッポで会議を持ったようだが、民意は確定しており、これ以上建設計画を強行すれば光州のようになってしまう、この認識は大統領や政府内部でもあり、当面の焦点は知事の動きではないかという状況分析であるようだ。知事が郡守を説き伏せ誘致を決断させた政治的な側面があるからだ。ある人は、郡守の対面を重んじ別のポストを用意し、落としどころを探るのではないかなどとも予想していた。また、一般的に言えば自主住民投票は法律にもとづいたものではないわけだから、日本の直接請求制度のような法的な整備が国会での課題になる。

確定したわけではないようだが、対策委員会のある人は郡守の解職運動を行いたいと語っていた。郡守の動向しだいではまた波乱が起こるかもしれない。しかしプアンではひとままず各地の対策委員会は残し、動向を見守るようだ。種まく春を前に人々にとっては生活の再建が急務だからである。

しかし、韓国水力原子力発電にとって、核廃棄物処分場の建設は急を要することには変わりがない。いくつかの延命策があるものの、敷地内にある使用済み核燃料の貯蔵能力は66000トン余りで、2010年には110000トンを超える。低レベル放射性廃棄物に関しても、原発敷地内の貯蔵能力はドラム缶で99000本程度だが、2010年には98000本を超えてしまう(原子力年鑑・日本原子力産業会議)。

韓国産業資源省の放射性廃棄物管理計画によれば、2008年までに低レベル廃棄物の処分場を完成させるとしている。言い換えれば、90年の安眠島と95年掘業島につづくプアン・ウィドの建設計画の頓挫は、増設があいつぐ韓国の原子力政策に内在する大きな波乱要因でもある。それだけに激しい攻防が今後も続くだろう。

韓国水力原子力発電は六ヶ所村に島民を連れて行ったというが、私たちの距離は思ったより近い。

最後に、初めての訪韓であったが、最後まで寄り添うように通訳をしていただき、歴史的な背景や人々の内面的な感情を教えてくれたキム・ボンニョさんにあらためて感謝したい。


2月10日の集会金子さんとボンニョさん

[目次へもどる]