ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.62より
ジャドゥゴダ調査旅行メモ
京都大学原子炉実験所 小出裕章
ジャドゥゴダ行きはこれで2度目である。1度目の調査旅行は01年12月であった。その時に空気中のラドン測定も行うつもりで、ラドン捕集用の活性炭を国際郵便小包で送ったが、ついにその荷物は届かなかった。ウラン鉱山の放射能汚染を調査するためにはラドン測定は欠くべからざる項目であり、どうしても再度の訪問を実現してラドン測定を実現したかった。そこで今回は、国際宅急便FedExを利用してみた。30個の活性炭試料を準備し、3月3日に実験所から発送した。6日には届いたとのメールがシュリプラカッシュから飛び込んできたので、なんと2、3日でデリーまで届いたことになる。
今回の調査旅行には前回も同行してくれた小林晃さんが同行してくれることになっていた。宇野田陽子さんは、前回の旅行後、ガンの手術をして体調を崩しており、今回はパス。その代わり、広島の森瀧春子さんのグループの米国籍黒人女性Dannette Lambertさんが同行を表明してくれていた。さらに、直前になって森瀧さんご自身とWorld Friendship Centerの尾崎令枝さんも同行してくれることになり、総勢5名。ネイティブの英語スピーカーや英語の達者な人びとがそろい、僕自身はすでに活性炭は現地に届いているし、あとは自分自身が現地に行けさえすれば調査はできる。特に何の緊張感もないまま、前日の夜リュックにざっと荷物を放り込んだ。
4月12日
インドは4〜5月が1年で一番暑い季節であるというガイドブックの記載を思い出し、うちわをリュックに入れる。昨夜インターネットで調べたところでは、タタナガルは最高気温が40度、最低気温でも24度となっていた。暑さにはめっぽう弱いのでうんざりだが、今を逃すとインドは雨期に入ってしまい、ラドン測定は不可能になる。何としても今、行かねばならない。
当初の予定では、関空からデリーに向かう便に乗る予定であった。しかし、その便が香港を経由する便で、ちょうどSARSが蔓延していたため、直前になってキャンセルされてしまっていた。そのため、急遽成田発バンコック経由の便で行くことになりまず伊丹から成田に飛んだ。成田からデリーへのAir
Indiaの飛行機は747-300Combiで若干小さめ。12時、滑走路脇の桜が満開の中、離陸。僕の席からはすぐに地上は見えなくなるが、30年以上前、僕自身もここで空港反対闘争の集会に加わっていたことを苦い思いをかみしめながら思う。20時すぎデリー空港着陸。
旧デリー市街の小さなホテルで、まずはとにかくここまでたどり着いたことを祝って5人で乾杯。
4月13日
朝食前に散歩に出る。ほこりっぽい道路、雑然とした車や人の流れ、馬車やら牛やらが悠然と通りを過ぎる。路上に座ったり、死んだように眠っていたりする人々。デリー門まで散歩してみる。僕が育った当時の浅草のような雰囲気の露地。広い道路の歩道には老人(案外、若いのかもしれない)がほとんど裸で横になっている。日本にももちろん路上生活者がいる。特に最近は不況のしわ寄せを受けてその数が増えている。しかし、彼らはなにがしかの荷物を持っているし、多くは段ボールやビニールシートで作った生活用の小屋も持っている。しかし、インドの路上生活者はまさに無一物である。彼らの人生がどのようなものであったのか、彼らの親は、子は、妻は、恋人はと思いを巡らせるが、僕の想像力を超えている。
10時すぎの国内線でランチーへ。昨年夏、森瀧さんたちの招待でシュリプラカッシュ、ビルリの息子のアシッシさん、それにランチーの高校生スネハさんが来日した。僕はスネハさんに会うのははじめてだが、彼女の友達も含め沢山の人たちが空港に迎えに来てくれていた。僕自身は今回の調査が終わるまでは隠密行動にしたいと思っていたが、何とマスコミまで来ていて驚かされる。
事前のシュリプラカッシュとの打ち合わせでは、今回は人数が前回より多いので車も大きめのものを手配したとのことであったが、ほとんど変わらず、6人乗りのランドクルーザーのような車。後ろの荷台に頑張ればあと4人ほどは何とか乗れる。シュリプラカッシュやスネハも乗ってギュウギュウ。とてつもなく暑い空気の中を雑踏のランチーの街中に向かう。スネハの友達数人も含め、街中のバザールのような建物の2階で一休み。ラッシーなるものを飲む。いわゆる飲むヨーグルトのようなものであった。スネハの同級生という男子学生と話をし、ランチーの人口は約100万人と聞かされる。以前シュリプラカッシュに聞いた時には、たしか2600万人とかいわれ、眉につばを付けていたが、100万人なら納得できる。
2時にはランチーの高校生たちと別れ、一路タタナガルを目指す。ランチーのとてつもない雑踏を抜け、ひたすら走る。葬列、泥水のような池で身体を洗う人びと、モンスーンの雨を期待しての稲作のため、今は何もない大地。日本とは違った空気と時間の流れ。
夕方、懐かしいホテル・カンチャン到着。部屋でミーティング。シュリプラカッシュが、3月に僕が彼宛に送ったラドン捕集用活性炭試料や前回送っておいたサーベイメーターなどを持ってきてくれており、今回の僕の仕事の内容を再度彼に伝えて、アレンジを依頼する。その後、シュリプラカッシュがインターネットカフェに、小林さんは明日から擬装用に使うスカーフを買いに出る。1枚30ルピー(約100円)で僕の分も譲ってもらう。
4月14日
4時半にコーランの放送が聞こえるが、音量はぐっと小さくなっていた。前回と同じホテルだし、モスクの位置が変わったとも思えないので、おそらくは放送の音量がずいぶんと小さくなっているのであろう。法による規制なのか、イスラムの力の低下なのか…?
8時に車で出発、雑踏のタタナガル。巨大なタタ製鉄所の脇を通って、ジャドゥゴダを目指す。現地での食事は食べられないものもあるので、途中で若干の食料も調達。道路脇の露天には果物などが溢れるほどある。
9時すぎ、ビルリ家到着。ビルリやアシッシと再会。JOAR(ジャールカンド反放射能同盟)の事務室になっている部屋に入りケンドゥの実を食べる。ウラン鉱山が来る前、飢饉には人びとは森の恵みであるこの実を食べていたそうだが、鉱山ができて以降、この実に種がないものが増えてきているという。梅かスモモかといった形だが、味は柿に似ている。シュリプラカッシュが、最近ロシアの協力でTamilNaduに新たに200万kWの原発建設計画があり、その燃料需要を満たすために、OrissaやAssamに新鉱山の計画があるという。
ビルリの家には電気が通っていて扇風機をつけていたが、すぐに停電(バッテリーが切れた?)になり、戸外の木陰に移る。次々に活動家が集まってきて木陰に敷いた敷物は溢れるほどの人で一杯。各自、自己紹介をしたりしながら、僕は今回の訪問で実施したい測定の話をする。@活性炭試料を配置してのラドン捕集、ATLDを配置しての空間ガンマ線量の測定、TLDは3ヶ月後に回収したい、Bサーベイメーターによる測定。
活性炭試料は30個のうちまず1つをその場で開封し、木陰の生け垣に吊してみせる。今回TLDは個人線量計測用の線量計と、むき出しのTLD素子をそれぞれ1つずつポリ袋に入れたものを20個用意して来た。そのうち1つを木に貼り付けて見せる。その上で、住民の自己紹介を聞きながらTLDを渡し、それぞれの家のそばの戸外、地表約1mの所に貼り付けるよう依頼する。結局、その場で鉱滓池周辺のChatikocha村を含め、東がGhatsila、西はTuramdihに渡る約20kmほどの範囲の住民8人にTLDを託す。
また、サーベイメータによる測定も見せ、Tilaitandのビルリの家のこの場は、0.04〜0.06μSv/hで全く正常。
住民の報告では、Turamdihではかって1982年頃にウランの試掘が行われた。品位が低く放棄されたが、ウランの輸入ができなくなり、政府は最近になって新たな鉱床を見つけて開発しようとしているとの話がある。そこでは、当時働いた鉱山労働者の運動と、新たに開かれようとしているウラン鉱山に対する住民の抵抗運動の2つの運動があるとのこと。森瀧さんは日本からのシェルター建設寄付金2000ドルをビルリに手渡す。おそらくはビルリ家が用意したのであろう、鳥料理や焼きめしのような食事も配られてくる。鳥はこの家で飼われている鶏であろう。程々にいただき、来る途中に買ってきたバナナなどの食料も食べて腹ごしらえ。
1時すぎにいよいよ僕は仕事の開始。前回大活躍したマンガル氏はなぜか今回、姿がなく、新たにパンドゥー氏が僕をバイクに乗せて走ってくれることになる。それにシェルター建設地近くに住むLedimkisku氏と、Bhatin村のBhoganhembrom氏がそれぞれバイクで付き添ってくれる。まずはBhatin村に行き、Bhoganhembrom氏の家の前の広場に活性炭の配置。住民がすぐに集まってきて、記念撮影。インドはどこも人びとは人なつこく、すぐに人だかりに囲まれる。できれば隠密行動にしたいがこれではとうてい無理であろう。
この場の空間線量率も0.04〜0.05μSv/hで全く正常。Bhatinではもう一カ所、村の西側の家に行って、もう一つ活性炭試料を配置する。木の枝に吊したが、風が吹いて活性炭がこぼれるといけないということで、住民が別のひもで縛ってくれたりする。こうして人びとの協力を得て、測定の仕事はようやくにして進んでおり、有意義な結果を何としても得たいと思う。この場の線量率も正常。少なくとも空間ガンマ線量に関しては、鉱山の影響はこの周辺の村までは及んでいない。
ついで、Michuwa村、Rakha Mine Station近くの村、Chatikocha村を訪れそれぞれの民家に活性炭試料を配置。どの村の空間線量率も正常であった。
Dungridih2の村に向かう。この村は第1鉱滓池の横にあり、ダムが真横にずっと続いているし、鉱滓池から流れてくる小川が村の中を流れている。入り口付近の道路脇に活性炭試料を吊す。空間線量率は0.06〜0.08μSv/hと若干高めの値を示す。やはり、この村は鉱滓の影響を受けている。すっかり作業になれたパンドゥーに頼んで、ここでは集まってきた住民と一緒に僕が記念撮影の写真に収まる。おそらくは自分の写真など持っていないであろうこの人たちに何とか写真を届けたいと思う。
次に、Dungridih1の村に入る。この村は第1鉱滓池のダム直下にあり、鉱滓ダムができる前に鉱滓が投棄されていたという池も隣にあって鉄条網で囲われている。もっとも鉄条網はあちこちで破られていて、もとの鉱滓池には牛たちが放たれ、のんびりと雑草を食べたりしている。入り口付近にあるBhoganhembrom氏の甥という人の家に入り、中庭に活性炭試料をつり下げさせて貰う。空間線量率は0.08μ〜0.09Sv/h。やはり、ここも鉱滓の影響がある。
鉱滓池周辺の村への活性炭試料の配置はほぼ終わり、一度ビルリの家に戻る。鉱滓池周辺には暗くなってからでないと近づけないとのことで、しばらく待機することにする。ビルリ家の裏には人造の池があり、その脇に、壁はなく屋根だけついた小さな小屋があり、そこにおいてあった簡素なベッドで寝かせてもらう。池では、ある村人は食器を洗い、ある村人は身体を洗う。子供たちは泳ぎ、牛たちも水浴びしている。泳いでいる仲間に向かって上から石を投げて遊ぶ子もいる。すべてが自然の中にとけ込んで、のんびりと時間が流れていく。ただ、池の向こうには道路を隔てて、Chatikochaの村があり、その向こうには高くそびえる第3鉱滓池のダムが見える。手前の道路には時折、巨大なダンプが走っている。
ウラン鉱山が来るまでは、きっとこのひたすら何気ない自然の中で、人びとは原始的というよりは、むしろ初源的とでもいうような自然と一体となった生活を営んできたのであろう。そうした生活と現在の日本や米国のような生活のどちらが豊かな生活なのか、深く考え込む。ウラン鉱山は米国や日本のような浪費社会を維持するために、あるいは核兵器を作るためには必要であろう。しかし、せめて初源的に生きている人たちの生活を乱すべきではない。自然に溶け込むように生きてきて、今なお電気など使わずに、そうして生きている人びとにとって、目の前を通り過ぎる巨大なダンプカーは、あたかもモンスターのように映っているだろう。
タタナガルに戻っていた森瀧さんたちも帰って来る。ビルリの家には弟の家族も一緒に住んでおり、弟の名前はJatuwa Biruli、第1ウラン鉱山であるナルワパハールでの鉱山労働者である。彼には3人の子供がいるが、一番上の息子、Somnath Biruliさんは9歳。先天性の四肢障害で歩くことができない。手の指にも障害が見える。ちょっとはにかみ屋さんだが、屈託なく笑う笑顔が可愛い聡明そうな子。ビルリ家の庭で小林さんたちが聞き取り調査。
ようやく薄暗くなってきて、僕はまたパンドゥーのバイクに乗せてもらって、鉱滓池への活性炭の配置に出かける。第2鉱滓池の縁まで到達したときにはすでにとっぷりと日も暮れていた。前回来たときにはしっかり鉄条網が残っていたフェンスは、すでに鉄条網がはずされており、鉱滓池内部に進入するはっきりとした道がついていた。もともと、ここは住民の生活の地であり、おそらくは住民が鉄条網をはずし、日常的にここを往来しているのであろう。
フェンス横の茂みに活性炭試料(No.1)を吊し、いよいよ鉱滓池内部に進入する。懐中電灯などは使ってはならないとのことだが、ほとんど満月に近い月が内部に続く道を照らしてくれる。その上、なんと蛍が飛んでいる。かなり内部まで進入し、活性炭試料(No.2)の設置。空間ガンマ線量率は0.7μSv/h。さすがに高い。
来た道を戻り、フェンスを出て、バイクを止めた地点まで戻る。途中で、もう一つ活性炭試料(No.3)を吊す。その場の空間線量率は0.02〜0.04μSv/h。再び、バイクに乗って第1鉱滓池の土手っ腹に行く。ここでも鉄条網は破れているし、前回は深く落ちていた塹壕のような堀も埋まっている所があり、難なく鉱滓池に進入。パンドゥーと2人で暗がりの道を進み、ほどほどの所、空間ガンマ線量率が0.8μSv/hの所に活性炭試料(No.4)を配置。フェンスまで戻り、もう一つの活性炭試料(No.5)を茂みの中に隠れるように吊す。
最後の試料は坑道からの排気口があるGarallyに設置することにする。途中まで戻り、シュリプラカッシュとLedimkiskuを待たせ、パンドゥーと二人、表通りからは見えない道なき道を進もうとするが暗くて見えないし、そこは断念し、懐中電灯を使わずに山道を駆け上がる。コンクリート囲いの横の崖を上り、排気口に飛び込む。前回は猛烈な勢いで風が吹き出していた排気口は、今回は静まり返っている。理由の分からないまま、とにかく鉄格子に活性炭試料(No.6)を縛り付ける。終了。
猛烈な暑さの中ひたすら動いて仕事をして汗をいっぱいかいたせいか、今日は朝からずっと一度もトイレに行っていない。ビルリの家に戻り、待っていてくれた森瀧、尾崎、Dannette、小林さんと合流。しばし休んで、車に乗ってタタナガルへの帰路につく。
4月15日
子どもたちのためのシェルター建設予定地に行く。すでに十数名の住民たちが待ってくれていた。シェルターの建設自体は、一昨年冬に来た時と比べてほとんど進んでいなかった。大きな樹の木陰に車座になって話を始める。マスコミも1人来ているそうだ。住民の説明によれば、まず敷地境界を示すための塀を作っているとのこと。今後は、インターネットのメールを使って情報のやりとりを密にし、工事の進行を監視する委員会を作るとのことで、僕もメンバーに入ることを了承する。
この付近の空間線量率は0.04〜0.06μSv/hで正常だし、ジャドゥゴダの普通の村と変わらない。時間が過ぎて木陰が移動するとともに、車座の人びとも少しずつ移動している。
2時近くになり、僕は昨日配置した活性炭の回収作業をしなければならないため、パンドゥーのバイクに乗ってその場を離れる。昨日設置したとおりに順次回収していく。ところが、Dungridih2の集落から外に出たところで、UCIL(インド・ウラニウム社)のガードマンに見つかる。何やら詰問してきたが、何とかその場を切り抜ける。
UCILの動きが気になるので、とにかく人目に付かない所で休憩していろとのことで、活性炭試料を回収したリュックを部屋の隅に隠し、JOARの事務所のある建物の一角にある薄暗いベッドに横になる。走り回って疲れていたこともあり、うとうとする。4時半頃ローカルポリスが踏み込んでくる。Ledimkiskuが起こしに来て、やむなく対応する。日本から来た人数と、滞在しているホテルを尋ねられ、それには答える。パスポートの提示も求められなかったし、荷物のチェックもされなかった。何か問題があるのかと問うたところ、「No Problem」と言い残して、ポリスは帰っていく。
鉱滓池に配置した試料の回収は、僕が行くのは危険があるので、パンドゥーとLedimkiskuが行くとのこと。しかし、今夜は天気が下り坂で月も見えないし、ビルリと話しているうちにすっかり暗くなった西の空に横殴りに稲妻が走り始める。活性炭は雨に遭えば測定の意味を失うので、すぐに回収に行ってくれるようパンドゥーとLedimkiskuに頼む。彼らはまずChatikochaの試料の回収に行くが、すでにすっかり暗くなっており、吊した試料の発見にずいぶんと手間取ったようで、7時過ぎにようやく帰ってくる。残りは鉱滓池内外に配置した5つの試料と排気口の試料、合計6個であることを告げ、回収を依頼する。
4月16日
昨日森瀧さんがマスコミの取材を受けたようで、記事が新聞に載っていた。ジャドゥゴダからDannetteがアシッシと一緒に戻ってきて、アッシシが昨夜パンドゥーとLedimkiskuが回収してくれた5個の試料を持ち帰ってくれる。回収できなかった1個の試料は排気口のものであった。それ以外の試料をよくぞ暗がりの中で回収してくれたと感謝するが、排気口の試料がなかったということはUCILが試料を発見して取り除いたということだろう。不審なものとして騒ぎになっているであろうが、僕の測定法はちょっと特殊なので、それが何であるのか理解するまでにはちょっと時間がかかるだろうと思う。試料を今日持ち歩くことは危険なので、ホテルの部屋の荷物の中にしまう。
シュリプラカッシュは上機嫌。昨夜またローカルポリスがビルリの家に事情聴取に来たそうだが、歴戦の強者のビルリが追い返したらしい。そして、何よりも、森瀧さんの記事が新聞に出たため、今は住民側に力があると彼は言う。「もしポリスがお前を逮捕するなら、国際問題になるし、一気に運動が盛り上がるから、むしろ住民にとってはいいことだ。もちろん、向こう側はそんな愚かなことはしないだろうが、もしお前が逮捕されたら、毎日、日本茶やビールの差し入れを持っていく」と冗談の連発。ただし、今日僕たちがジャドゥゴダに行くことは危険だし、僕自身の仕事も実質的には終了しているので、もう行かずに済ませるとのこと。
午前中は第4ウラン鉱山予定地Turamdihでの集会。9時半近くに到着すると、すでに20人近い住民が集会所に集まっていた。集会所から1kmほど離れた所で、1982年からウランの試掘が始まり、当時は住民が労働者として働いたようだ。最近になって、ここから2kmほど離れた地点で、新たに露天掘りの鉱山を開く計画があるという。
メンバー紹介の後、まずは僕がウラン鉱山の危険性について説明する。英語からヒンディー語にはシュリプラカッシュが翻訳する。その後森瀧さんが反核・反原発の話、続いてDannetteが運動や、平和・差別の話をする。住民はその後も三々五々集まってきて、最終的には40人ほどになるし、ジャドゥゴダからもビルリ夫妻やアシッシなど10名くらいがやってくる。小林さんは簡単な挨拶の後、広島の原爆で死んだ6歳の女の子の歌を歌う。これが一番受けたような気がする。質疑になり、「どのくらいの長さ危険があるのか?」、「労働者に対する危険はどのようなものか?」、「どうすればいいのか?」など、深刻な質問が続く。
午後もまた集会。車に9人も乗ってぎゅうぎゅうで出かける。会場はタタナガル市内。相当知的レベルの高い人たちの反戦集会のようで、いきなり僕にも劣化ウランの危険性について話をしろとシュリプラカッシュが言ってくる。まったく強引な奴で驚くが、多彩な集会を準備できるのも彼ならだし、基本的な点で信頼できる奴なので、じっと我慢で協力する。結局狭い会場に100人を超す人が集まり、2時過ぎまで集会。森瀧さんやDannetteが熱弁を振るい、森瀧さんたちが用意してきたイラクにおける劣化ウラン被害のビデオなども見せる。集会後、10人近いマスコミ関係者を相手に記者会見。
森瀧さんはしぶとくもう一度ジャドゥゴダに行きたいとシュリプラカッシュにいっていたが、相手にされない。僕は30個用意してきた活性炭のうち実際に回収できたのは14個だし、持ってきたTLDのうち、住民に配置を依頼できたのは9個でしかなく、仕事の半分弱しかできなかった。しかし、UCILやポリスの下、これ以上の活動をすれば、実施的に圧力を受けるのは住民たちであるから、もうこれ以上の測定作業は断念することにする。
4月17日
スネハの学校である「Guru Nanak Hr Sec School」に行く。巨大な学校で、3000人の生徒がいるとのことであった。広い校庭の脇の大きな講堂に入ったら400人近い高校生がぎっしり詰まって、僕たちの到着を待っていた。大歓声。生徒の熱気に圧倒される。全体の約4分の1が女子生徒。
講堂の壇上の椅子に座らされ、校長のあいさつなどの後、僕たちの話が始まる。放射能の話や劣化ウランの話、それにジャールカンド州でのウラン鉱山の話などをする。ここでは通訳は必要ないようで、英語のまま集会は進行。森瀧さん、Dannette、尾崎さんも続いて話をし、小林さんはまた、「Singer Song Photographer」になる。小林さんの歌には割れんばかりの拍手。質疑になったら、高校生たちが積極的に発言を求め、米国によるイラクへの攻撃に反対し、米国人であるDannetteにくってかかる。もちろんDannetteは米国のイラク攻撃に反対し、積極的に反戦運動に関わってきたはずだが、そのDannetteすらをたじろがせるほどの勢い。日本では、政府は属国であるかのごとく米国を支持しているし、世論にしても、米国の宣伝が行き渡り、米国型民主主義があたかも至上の善であるかのように思いこまされているが、世界に出てみれば、高校生すらが独自の価値観を確立しようとしている。素敵なことだ。
4月19日、ポリスにも捕まらず、活性炭試料も差し押さえられないでインドを出ることができた。ラドン調査の結果は次回報告する。
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この文章は事務局の責任で短くしたものです。もとの版が欲しい方は小出さんに連絡してください。
⇒大阪府泉南郡熊取町野田 京都大学原子炉実験所 小出裕章
e-mail: koide@rri.kyoto-u.ac.jp
ノーニュークス・アジアフォーラム通信/もくじ
No.62(03年6月20日発行)B4版28ページ
●貢寮郷、地方自治体として原子炉搬入に抗議行動
●日本の台湾再侵略に抗議する!
―塩寮抗日行動を支持し、原発輸入に反対する―(台湾12団体)
●呉港から原子炉積み出し、海上で抗議行動
●ヒロシマからの原発輸出の中止を求める要請書(ピースリンク広島・呉・岩国)
●日本の人々へ ―恨みと恐怖の原子炉輸出―(塩寮反核自救会)
●第四原発公民投票を(施信民)(鄭先祐)
●ジャドゥゴダ調査旅行メモ、その2(小出裕章)
●イラク原子力施設の放射能汚染拡大(山崎久隆)
●純朴な住民たちを傷つけるな!−韓国核廃棄物処分場建設計画(キム・ヒョンサン)
●核不拡散の会議で、原発推進
-ジュネーブNPT PrepCom参加報告ー(大庭里美)
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