ノーニュークス・アジアフォーラム通信No.117より

モンゴルに核ゴミ輸出?!

- ウラン開発、原発建設、使用済み核燃料処分場 -



核廃棄物をモンゴルに持ち込むな

      
             崔勝久(原発体制を問うキリスト者ネットワーク)

 7月、2度目のモンゴル訪問をしました。大阪大学の今岡良子さんが段取りしてくださったゴビ砂漠行きにも挑戦しました。

● ウランバートルでの会議

 1月横浜での脱原発世界会議に参加したセレンゲさん(元緑の党・党首)のよびかけで、緑の党関係者(事務局長、大学教授)、NGO関係者、ジャーナリスト、Facebookを通じた反原発運動を進める若い人が会議に集まりました。

 私はその席で、7月16日に日本で戦後初めて10万人を越す人たちが原発反対で集まるので、モンゴルでもそれに呼応して日本大使館前でアクションを行うことを提案しました。モンゴルのウラン採掘に関与するな、原発を輸出するな、核廃棄物をモンゴルに持ち込むな、と訴えることになりました。また、11月11日に「No Nukes Asia Actions」として、アジア各国で同時行動を行ってはどうかと、提案しました。

 日本は、高レベル放射性廃棄物の最終処分場をどこにも決定できないでいる。また、ベトナムと原発輸出契約をしたが、使用済み核燃料の処分に日本が責任を持つことになっている。同じく韓国もUAEに原発を輸出するが、その使用済み核燃料を韓国が引き取ることになっている。ということは、彼らはすべてモンゴルに焦点を合わせ、最終的に、核廃棄物をモンゴルに持込み埋蔵するしか自分たちの原発の核廃棄物を処分する方法はない。

 昨年毎日新聞がスクープした日米モンゴル(後でUAEも参加表明、実態は韓国か)の「CFS構想」(ウランの発掘、精錬、輸出、核廃棄物輸入、処理、保管、埋蔵を核拡散防止という口実で一括処理する)と、この7月4日のマルダイ「放射線測定所?」などへの予算通過が、つながったものとして理解できる。

 「CFS構想」通りに進むと、モンゴルに使用済み核燃料を押しつける形で、日本や韓国の原発輸出が進みかねない。モンゴルこそ、アジアの脱原発のカギを握っている。

● 日本大使館前

 7月16日、ウランバートルの日本大使館前に20名が集まりました。大使館前ですから官憲もいました。



 私は、大使館職員(日本人・外務省)に、今回の要求を説明しました。(1)核廃棄物をモンゴルに持ち込むな(2)ウラン採掘に関与するな(3)原発輸出ではなく、モンゴルの実情にあった技術を積極的に紹介すること、の3点です。日本人職員の某氏は自分の名前を名乗りながらも決して公にしないことを求めてきました。私は了解し、そのかわり日本大使と日本政府にしっかりとこちらの要求を伝えることを求め、彼は了承しました。

 当日はモンゴルのTV局5社とアメリカのTV局1社が取材に来ました。実際にテレビで放映されたことも確認しました。

● ゴビ砂漠への旅行

 モンゴルのウラン採掘の現場はこれまで公にされておらず、ウラン鉱山の実態は明らかにされていません。旧ソ連がモンゴルでウラン採掘をした跡がいくつか残っており、そこは穴凹になっているとのこと。労働者被曝の実態も定かではありません。私はウラン鉱山で働き肝臓を悪くしたという青年に昨年出会いました。

 ウランバートルから400kmほど離れたウラン鉱山跡地へ、ゴビ砂漠を車で10時間かけて行きました。 

 ゴビ砂漠はめったに雨の降らないところだそうですが、出発の日は小雨が降りました。砂漠ということで連想するアラビアのロレンスや鳥取のようなものとは違い、5センチくらいの草が生えている草原です。途中までは舗装されたいい道だったのですが、そこから先は、砂漠(草原)の道らしきところを手掛かりにして進むのです。しかしあるところでは雨のため、でこぼこになった砂から車が抜け出ることができず、全員降りて押すしかありませんでした。途中、馬や牛、ヒツジの群れに遇うことがありました。

 砂漠(草原)の中に鉄のパイプが埋め込まれていてそこから鉱物を取り出した跡がありました。

 夕暮れになると、雨もあがり、太陽が沈むところが絵のような美しさでした。そして間もなく全く光が消えました。見上げると噂に聞いた星空です。これを言葉で表現することはできません。モンゴルの砂漠を一度でも訪れ、草原のにおいをかぎ、動物に出会い、青空と星空を見た人は何度でも訪れたがるとのことでした。

 ここにどうして使用済み核燃料を埋めるというのでしょうか。正気の沙汰ではありません。産業化だ工業化だとか言いながら、お金に目がくらんだ人たちが企んだのでしょう。

 多くの村人はウランの怖さと核廃棄物の怖さを知らされていないようでした。

人類は核廃棄物を処理する技術を持たないのです。何万年も子孫に託するのでしょうか。
一刻も早く原発を廃絶する、そしてその後、核廃棄物をどうするかを、みんなで話し合う。これしかないということを私はゴビ砂漠の中でしみじみと感じました。




核廃棄物処分場候補地マルダイに行ってきました
  
                    今岡良子(大阪大学言語文化研究科)

● なぜ、マルダイか?

 2010年、朝青龍がウラン鉱山の開発権利を買ったとかどうとか、モンゴルでささやかれるようになった。1989年から遊牧社会の研究をしている私は、モンゴルの大地とそこに生きる人はこれから大変な試練にあうと予感した。

 遊牧の民は今も人口の3分の1。国民の主食である肉と乳・乳製品を生産している。基幹産業である遊牧は、今も、伝統的な方法で、ゴミを一つも出さず、家畜のすべてを利用する方法で行われている。「トイレのないマンション」と言われる原発とは原理が違う。その燃料であるウランを遊牧の大地から掘り出し、経済発展を遂げようとバトボルド首相(当時)は表明した。

 2011年3月11日、東北大震災。福島第一原発の爆発を見てしまった。原発問題に向き合わずに生きてはいけない、と思った。

 同年5月9日、毎日新聞のトップに「日米が核処分場極秘計画」「モンゴルに建設」とスクープが出た。「トイレのないマンション」のトイレがモンゴルに作られる。また、トイレができることによって、原発はフクシマ後も生き延びる。この問題に向き合わないモンゴル研究などありえない、と思った。モンゴル研究者に育ててくれたモンゴルの人々に恩返しするのは今だと思った。

 モンゴルでフクシマの苦しみをくり返さないために、福島に行った。藤本幸久監督が作成した小出裕章さんのDVD上映キャラバンに参加し、上映後、市民と語り、そこに生きる苦悩、そこを去る苦渋を知った。

 8月、モンゴルへ行った。毎日新聞で候補地の一つとして取り上げられたドルノド県バヤンタル郡に行った。北京とモスクワを結ぶ国際列車の駅があり、中国から陸送する物資が通る幹線道路がある。核廃棄物を処分するのは、ここではないと思った。

 12月、日本の原発関連企業などに情報を提供するシンクタンクの原産協会が、「モンゴルの原子力発電導入状況とウラン鉱業」に関する報告をまとめた。
www.jaif.or.jp/ja/asia/mongol/mongol_data.pdf

 この中ではソ連時代にウラン鉱山として開発されたドルノド県のマルダイのことが何度も触れられている。モンゴルの最も東、ウランバートルから東に600km以上。ボリアド(ロシア語ではブリヤート)という少数民族が住むところ。この地下鉱山跡地を核廃棄物処分場にしようとしているのではないか、と思った。

 こうして12年8月13日、マルダイに向かった。Anti Nuke Movement Mongoliaのメンバーで、マルダイのウラン鉱山で放射線管理の仕事に従事していた若者といっしょに。 (参考golomt.org)

● バヤンドン郡の中心地で

 私にもそれなりの不安はあった。以前、金鉱山の町に行った時、そこの長から、今すぐ出て行ってくれ、嗅ぎ回るな、と言わんばかりの扱いを受けた。ウランとなると、もっと厳しいだろう。しかし、マルダイの近くを故郷とする知人が、応援すると言ってくれた。いつもモンゴルの民族衣装を縫ってくれる元気な女性で、ボリアド民族出身。「核廃棄物処分場などできたら故郷を失う。ボリアド民族は滅びてしまう」そう考えた彼女は、夏休みの帰郷を早めて、私より先にウランバートルを出発し、郡長は同級生だし、いろんな人を紹介しましょう、と言った。地元の人が受け入れてくれるなら滞在しやすい。彼女の日程にあわせて現地に入ろうと思った。

 13日朝8時、ウランバートルを出発。ヘンティー県都のウンドゥルハーンを超えるとアスファルトの道からはずれ、車の轍を北上し、21時、彼女の待つドルノド県バヤンドン郡着。車のメーターは665kmをさした。ボリアド民族の定住者は木の家に暮らす。入り口を入ると土間があり、パンを焼いている。彼女の母親に手厚く迎えてもらって最初の夜を過ごす。 

 14日、まず、バヤンドン郡役場に行き、訪問の目的を話す。郡長は夏休みで、副長が応対してくれた。彼はモンゴル国立大学の物理学専攻。初めはとまどいながらも、こちらの話はすぐ理解してくれた。

 自分の家畜はマルダイから20kmのところで放牧していたが、3頭の家畜の肺が真っ黒なのを見て驚き、何か危険な状態にあるのではないかと郡長に話したがとりあってもらえなかった。その後、家畜はバヤンドン郡の北部に移した。

 ロシアにウラン鉱を運んだ鉄道は、今は線路も撤去しているが、石炭を運ぶのと同じようにウラン鉱を覆いもせず輸送した。鉄道に沿った放牧地が安全なのかどうか、ずっと心配してきたこと。

 バヤンドン郡の役場、公民館、店舗、民家を建てるのに、マルダイの旧ロシア人労働者アパートを解体した建築資材を再利用し、現在も幼稚園を建てている。それが大丈夫なのか、ずっと心配していること。

 副長は、心の中に閉じ込めてきたことを語り始めた。そして、マルダイから帰ったら、同行した反核若者が公民館で「ウラニウム」という映画を上映すること、住民と話し合うことを許可してくれた。

 知人の家に戻り、空間線量を計ってみた。0.2μSv/時。隣の家はマルダイから建築資材を運んで建てた家という。0.4μSv/時。たしかに高い。途中で通過した隣の県の中心地ウンドゥルハーンは0.09μSv/時だった。

 私は将来の核廃棄物処分場候補地を見ておきたいと思ってマルダイを目指した。しかし、すでに問題は始まっていることを知った。マルダイはバヤンドン郡とダシバルバル郡とセルゲレン郡、3つの郡の境界にある。マルダイ周辺の住民は低線量被曝問題を抱えて生きているのである。

 彼女の母は60歳。ロシア連邦に属するボリアド(ブリヤート)共和国のナーダム(祭典)は「アルタルガナ」と言い、昨年は7月20日頃アグアというところで開かれ、母親は見に行った。その時の話をしてくれた。

 マルダイのウラン鉱山は2005年で閉山。地下鉱山の穴を塞ぎ、地上にあるものは黒いもの(鉛?)で覆い、そこで働いていたロシア人労働者はすべて帰国した。しかし、一部の労働者はモンゴルとロシアの間の境界地から出してもらえず、凍死した。なんとか、ロシア国境を超えた人はブリヤート人の家で家事手伝いをして暮らしているのを見て何とも心が痛かった。

 (反核若者によると、マルダイで働いていたロシア人労働者の中には、最も危険なところで働かされる囚人がいたので、そういう扱いをされたのだろう、と。チェルノブィリの事故時にも囚人が使われたとモンゴル人はよく言う。スターリンの時代ではなく、ペレストロイカの後も囚人を労働者とするのか。大阪の釜ヶ崎から日雇い労働者が福島原発の処理をさせらたという記事があった。古今東西、社会主義も、資本主義も、ウラン鉱山や原発の労働者はこんな目にあうのか、と思った)。

 また、80年代にロシアにウラン鉱を運ぶために作った道路は、壊れてしまったが、一週間前から、ロシアからバヤンドンに向けて道路工事をしている。母は何度も首をかしげて言った。「何かが始まっている」。

● マルダイへ

 今年は雨が多く、道がぬかるみ、何度もスタックしそうになりながら、草原の轍を走る。こつ然と高層ビルが現れた。マルダイのロシア人労働者の宿舎である。窓ガラスはなく、天井も床もない廃墟となっていた。空間線量は平均0.2μSv/時。



 周囲にはロシア人が植えた白樺に似た広葉樹が育っていた。きっと美しい町だったに違いない。ここには幼稚園、学校、公民館、お店、ないものはなかったという。一戸建て住宅の並ぶ地域では、屋根や壁を解体し、トラックに積んでいる人たちがいた。上下水道も掘り出され、土管も、溝も、ふたもなかった。

 鉄道跡は草が覆い、こんもりとした長い丘になり、20km先のウラン鉱積載地まで伸びていた。

 住宅地から離れると、車両関係の倉庫や整備場だったと思われる建物の基礎があちこちにあった。

 ウラン鉱を積載したポイントには、黄色い看板が建てられていた。英語で書かれているので、遊牧民は危険がわかるのだろうか。こぼれ落ちたウラン鉱がそのままそこにあった。ロシア人労働者が黒いもので覆ったが、モンゴル人がそれを持ち帰り、肉などの食品を包むのに使ったという。



 ここで線量を計ったら警告音が鳴り、5.8μSv/時を指した。小山の麓で計ったのだが、上にあがればもっと高くなったかもしれない。恐れをなして、すぐに車に戻った。



しかし、私が訪ねた飯舘村は、役場の近くで7μ、田んぼで10μ、浪江町との境界の長泥では25〜30μSv/時を指したことを思い出すと、福島はウラン鉱山よりも空間線量が高い。また血の気がひく思いがした。



● マルダイから帰って

 マルダイは封鎖されていると思っていたが、草原にこつ然と現れる町で、誰でも、家畜でも、どこからでも入れる状態になっていた。5.8μSv/時のホットスポットもある。廃棄物再利用者とその車が出入りし、放射能で汚染された物を運び出している。

 反核若者は言った。「S.O.S. MARDAI!」
 このまま放置してはいけない。私は思った。「SAVE Bayandun! SAVEDashibalbar!」周辺住民の健康を守らないといけない。

 バヤンドン郡に戻り、そのことを副長に話した。理解してくれた。モンゴルのバトボルド首相は二国間協定締結のため来日し、311の追悼集会にも参加した。5月17日、首相が認めた「投資計画」案ではマルダイに「核廃棄物保管、加工、埋蔵施設」を建設する予算がついた。6月26日案でマルダイに「放射線測定所」を建設すると目的を書き換えられた「同額」の予算が、7月4日に閣議決定された。そのことを知っているかと副長に聞いたら、初耳だと驚いていた。地元に説明もせず、核関連の施設を建設するとはどういうことなのか。

 8月18日の「ウヌードル」紙は、国家発展計画委員会の説明を掲載し、この投資計画では病院などから出た放射性廃棄物を保管する場所を作るということであった。

 副長と話し合った。マルダイに何かが建設されるらしい。8月7日の「ウォールストリートジャーナル」によるとアメリカ政府は、核廃棄物処分場問題が解決しない限り、原発の新規建設を凍結するという。原発関連企業は血眼になって処分場を探すだろう。マルダイにはすでに地下400m以上の深さで11kmに及ぶ坑道があると住民が言う。やはり、ここが核廃棄物処分場になる可能性がある。

 そうならないように、投資計画の予算は地元にひっぱってくる必要がある。すでに住民は放射能で汚染された物を建築資材にして暮らしている。住民の健康を守るための放射線測定所を無人のマルダイではなく、郡の中心地に作るべきである。この10月、地方選挙がある。おそらくそれで決まるだろう。マルダイとその周辺自治体が核なき社会を作っていけるかどうか。

 映画「ウラニウム」の上映会で、化学の先生がマイクをとった。
「数年前、マルダイのウラン鉱山の危険性を話したら、みんなに、気にしすぎると馬鹿にされた。30年後にがんになるという話をしても、寿命の短いモンゴル人は、今から30年は生きられるんだから大丈夫だと思ってしまう。体がだるいとか、病気になりやすいとか、影響を受けるのだが、忍耐強いのでそのまま過ごしてしまう。ウランの問題は貧困問題と結びついている。モンゴルには4000万頭の家畜がいる。すべての鉱山を閉鎖しても、私たちは飢えることはない。今日の映画を見て、私は自信を持った。地元で闘わないと、誰が守ってくれるものか。子どもたちのために、この大地を守るために、反対運動の先頭に立ちたい」

 心の中に閉じ込めていた思いがあふれ出た。他の住民は拍手で答えた。住民は立ち上がり始めた。

 隣のダシバルバル郡でも女性の医師が郡長をつとめていた2006年、時の首相から郡の中心地をマルダイに移転するように言われた。しかし、放射線の危険性を知る彼女はどんなことがあっても移さないと拒否した。その時の勇気はどんなものであっただろうか。一人の人間の知識と英断で数千人の命と健康を守ったことになる。

 草原で泊めてくれた遊牧民が言った。「私は、放射線がどれぐらいなら大丈夫とか、危ないとか、そういうことはわからない。しかし、広島の原爆については学校で習ったし、自分で本も読んだ。ウランは唯一核兵器の燃料である。だから、私のふるさとの大地から掘り出してはいけない。私はそう思う」。これが大地に生きる遊牧民の思想である。

 祝島の原発反対運動が30年以上も続いたのは、海に根ざした生活があったからだ。草原に根ざす遊牧の生活がある限り、マルダイ周辺の人々は反対するだろう。

 私は、日本人のモンゴル研究者として、ヒロシマとフクシマの経験を伝え続けたい。それを任務として生きていきたい。マルダイに行って、そう思った。

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